正徹・心敬・宗祇・葉隠などなど

葉隠の諸相 -正徹・心敬・宗祇・葉隠などなど-     嘉  村  孝

葉隠の中に有名な連歌の名人正徹の話が載っていることは先にも取り上げました。もう一度書きますと、「聞書第十」の中に「東福寺の書記正徹は歌道の名人。或時五條辺へ斎に参り候折節、大雪降り、途中にて鷺の飛びかへるを見て、飛びかへる雲井の鷺の羽風よりわが色こぼす雪の曙」と詠み、そのままある家に着いたところ、亭主が出てきて「『今曙の夢に、定家卿ご来臨、飛びかへる・・・と御詠歌候と見申し候』由、語り申され候へば、『それは只今途中にて我等読み申し候。』と申され候。さては定家卿の御再来にて候と申し候て、世上に其の沙汰これ有り候由。」とある部分です。いくらなんでも出来過ぎた非科学的な話と私は思っていますが、このような話が載るのには、山本常朝や田代陣基らの趣味も大いに関わっているような気がします。

そこで、そもそも連歌ですが、平安時代に主として行われた短連歌と、鎌倉時代から江戸時代の前期にかけて流行した長連歌を総称して言うと言われており、和歌の上句か下句かのどちらかの句を詠みかけられた場合に、他方の句で答える形式のもので、機知的な唱和詩ともいうべきものとされています(「新潮日本文学辞典」)。

この連歌は北朝の関白をつとめた二条良基らによって大いに詠まれ、その後、正徹、心敬、宗祇などへと継承されますが、彼らが活動したのは、主として一三〇〇年代の初めから一四〇〇年代の末期にかけてでした。この室町時代、京都にある室町将軍家と関東公方との間には様々な軋轢があり、西国では大内氏がそれに呼応するといった形で次々と戦乱が起きました。典型的なものは足利義満の時代に、大内義弘が堺で敗死した応永の乱(一三九九年)であり、その時は関東公方足利満兼と大内氏との連携が問題となりました。そして満兼の子持氏は将軍義持の子義量に跡継ぎが無かったことから、自ら将軍職を望み、還俗して将軍となった義教と対立して、永享の乱、更に嘉吉の乱、そして享徳の乱、この間には結城合戦と、特に関東は激しい戦争が行われ、一四六七年の応仁・文明の乱へとつながっていきます。

しかしこんな中、彼らの中では連歌が非常に盛んで、例えば武将太田道灌などもそのスポンサーであり、正徹の跡を継いだ心敬、宗祇らが一四七〇年「河越千句」を、葉隠とよく似た文章を載せる心敬の「ひとりごと」にも登場する品川の有徳人・鈴木長敏もこれに深く関わっています。この鈴木氏は熊野ともつながります。一方、宗祇らは一四八〇年、大内政弘の招きに応じて博多、大宰府にやってきて、「博多百韻」を詠みました。

こんな全国的広がりがありますが、大内政弘と敵対していたのが、鎌倉以来北部九州の主であった少弐政資です。政資もまた連歌に堪能で、『歴代鎮西志』によれば「朝鳥の霜夜に眠る日陰かな」という有名な句を詠んでおり、「朝鳥の少弐」と呼ばれました。彼の一生は正に劇的なものであり、応仁・文明の乱の時、一旦大宰府を回復しますが、それが終わると再び肥前に追い詰められて、現在の佐賀市にあった与賀城、龍泰寺のあるところを本拠とします。しかし最終的には一四九七年、大内義興のために多久の専称寺で自害することになりました。この時の歌もいろいろ説があるものの、「花ぞ散る思へば風の科ならず時至りぬる春の夕暮」という秀歌です。

このように関東だけでなく九州にも、相当な連歌の足跡が残されている上に、強いつながりがあります。三好長慶が「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と述べたことにも符合しているのかもしれません。

ただ、葉隠の「主人公」として戦いを続けねばならなかった鍋島直茂らには、さほどそういった傾向は見られません。

しかるに遥かに下って江戸中期にさしかかった一七〇〇年代になり、特に正徹とも関わりの深い古今伝授を受けることを欲した鍋島光茂の家来である山本常朝、そしてそこへ訪ねてきた田代陣基らは、まず「夜陰の閑談」のはじめにおいて、「浮世から何里あらうか山櫻 古丸(常朝)」「白雲や唯今花に尋ね合ひ 期醉(陣基)」と、常朝を花に譬える連歌的な句を詠んでいます。

そして、閑談が終わった時には、「手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期醉(陣基)」「朝顔の枯蔓燃ゆる庵かな 古丸(常朝)」と詠んでいます。正に連歌の付合でしょう。

長い連歌の歴史からこうした傾向をみると、上記のとおり一五〇〇、一六〇〇年代、北部九州ではそうした傾向は戦乱のために希薄となりましたが、再び世の中が落ち着いてくると、趣味に生きる光茂の家来は、再びそうしたものを復活させたという見方ができるかもしれません。まだまだ調査(?)が必要ですが。

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