殿様の結婚と武士道(武士の生き方)

葉隠の諸相 ~殿様の結婚と武士道(武士の生き方)~         嘉村孝

日本の婚姻制度に関して、コンパクトにまとめられたものとしては、石井良助先生の書かれたものがあります。

それによりますと、上代には最初の妻を「こなみ」と称し、その後の妻を「うはなり」と称したということですが、葉隠には正に後妻である「うはなり」をやっつける「うわなり討ち」の記事が出てきます。佐賀県にもそのような古い呼称が江戸時代までしっかり残って、面白い習俗があったことに興味が持たれます。

さてそこで葉隠関係者の結婚ですが、戦国時代にさかのぼり、鍋島清久の場合は、お相手は野田清忠の娘でした。野田はたぶん下総の野田から来たもので、大江一族であったかと思われます。毛利家などもそのような大江の子孫を称し、九州地方や山口に分布している氏族です。次の清房の場合、龍造寺家兼や胤和の娘と結婚しています。やはり地元からということになります。次の藩祖鍋島直茂の場合は高木胤秀の娘です。この髙木氏も佐賀の北にいた古い氏族であって地元であり、また、このような「胤」という字つまり千葉一族の通字である「胤」を使用していることからも、千葉氏との関係が強く窺えるように思います。そして、髙木氏からの妻との関係が大友氏との関係でおかしくなって、後に迎えたのが石井氏からの陽泰院ということになりますが、この石井も関東の猿島郡石井郷から千葉氏とともに下ってきた鎌倉以来の武士です。ちなみに、うはなり打ちの記事は、この先・後妻間のものです。

そのような流れであったところ、勝茂は戸田勝典の娘、後に岡部長盛の娘、という具合に徳川との関係が深くなり、その後忠直の場合は松平忠朝の娘、そして光茂は上杉定勝の娘と結婚し、後に大納言通純の娘と結婚するというような形になります。その後は公家などとの関係が非常に深くなって行くといえるでしょう。

これは、幕府によって武士同士の結婚というものを禁ずる傾向が強くなって行ったことによるようです。

そんな中、葉隠の中で、水戸黄門は「鍋島風は丹後守殿(光茂)限りと見え候。摂津守(蓮池の鍋島直之)似られ候へども、遥かに似劣られたり。其方などは旗本者ぞ。」と言ったとか。つまりは戦国の風はすたれた、ということでしょう。

しかし、そんなことを言っている光圀自身が随分京都との関係が深い人であって、したがって、水戸藩の場合、最後に近い斉昭に至れば、奥さんは側室を含めて十人、子供は一応正式には(つまり、実際にはもっと?)三七人いたということになるわけで、しかも、宮家や公家との関わりが極めて深いということですから、これはいよいよもって「武士」とは言えないということになろうかと思います。

そこで、もう少し広くこのことを考えて、「横縦論」という勝手なネーミングをしてみました。横とはすなわち武士同士のつながりということになるわけですが、これは例えば、中国における二千年前の匈奴は北方騎馬民族相互の結婚によって漢に対抗する、それに対して漢は自らのお姫様たちを匈奴に下げ渡してこれを骨抜きにするということが行われたわけです。近世の女真族やモンゴル族との関係についても同様のことが言えます。このように横と縦によって様々にその勢力を強めたり弱めたりするのは東洋あるいは洋の東西を問わない一つのやりかたであったのでしょう。しかしその結果、純然たる侍らしい武士道は形を変え、葉隠の言うところの「上方風の打ちあがりたる武道(ママ)」になってしまったといえるのかもしれません。

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