葉隠の諸相 ―葉隠と孝の話しー 嘉 村 孝
葉隠の四誓願の中には、「親に孝行つかまつるべきこと」とあります。この葉隠が取り上げる「孝」は我々が普通考える親孝行と同じようなものと考えられるかもしれません。しかし以下に述べるとおりなかなか深いものがあります。
はじめに、世界的な孝の系譜として考えなければならないのはやはり中国におけるそれです。
「孝経」は論語とともに儒家において最も大切にされた経典ですが、特に漢の時代において、儒家の中心的な思想になりました。その後、とりわけ六朝時代に、様々な「孝子伝」が生まれ、更にそれは、概ね宋の時代に「二十四孝」という形で整序されたようです。その中身は、子が親を尊ぶという、いわば大と小の論理から始まって、その孝心に天が応じ滝が酒に変る、冬にたけのこが生える、氷が割れて魚が獲れる、といった奇譚となり、遂には子供の方も、親にいじめられることを喜ぶというマゾヒズム的なものまで生まれます。日本の律令時代にはこの影響を受けた「養老の滝」のような話しがあり(「古今著聞集」)、元正天皇の頃、現在の岐阜県養老地方に輩出した孝子の話が天皇に聞き届けられて、年号を「養老」と改めたと言われています。その後、「御伽草子」や「太平記」などの中に、孝子伝は沢山作られました。
しかるに日本のこのような孝子伝の傾向が大きく変わったのは、私の考えるところやはり一六〇〇年代の特に中国における世界史的変動によるところが大きかったのではないかと思います。歌舞伎においては、中国の孝子伝のいわば行きついた果てともいえる子供の滅私奉公の話が作られました。更に一七〇〇年以降において数々の「孝子伝」が作られました。特に会津、岡山、三重など儒教主義が強く打ち出された地方において作られ、下って松平定信によって全国的に展開されていきました。こうした傾向はやはり文治主義、朱子学のなせるわざかと思われます。このような傾向に対して、西鶴は貞享三年(一六八六年)「本朝二十不孝」を書いて、ある意味綱吉による儒教主義への一種の皮肉めいた、いや、しかし何よりも小説を売らなくてはならないという意味での町人の経済優先型の不孝な話を書いて大当たりに当たりました。
話を元に戻して江戸時代のそうした傾向は、概ね明治二〇年ころまで続いたと言われ、明治初期には未だ滅私奉公的な孝の話が広がっていたのですが、あまりにも孝を強調することから、忠の対象たる国家の権力に対して容喙を加えるものといわざるを得ず、ここに当局はこうした物語が表に出ないようにしていったという傾向があるようです。しかし、明治三二年に出た新渡戸稲造さんの「武士道」では、いまだ「菅原伝授手習鑑」という滅私奉公的なものが「国家または国家の正当なる掌握者のために死ぬべきものとなした」などという言葉のところに載っているというわけです。
さてそこで翻って葉隠ですが、山本常朝のいささか長い話があります。それによりますと、養子に行ったある家の子供が、養子息子としてたいしたことはなかったことから養父につらく当たられ、養母が常朝のところに相談に来たため、常朝は子供を呼び寄せて、「しっかりしろ、父親の命もさほど長くない。ここで我慢しなさい。そして何よりも、氏神様に祈って養父母に気に入られるように頼みなさい」というようにアドバイスしたところ、見事それが実って、養父母の受けが良くなった、などという話です。ひどい話し、あるいは、笑い出したくなるところもある一方、養老の滝と似たり寄ったりの奇譚的なところもあります。こうした話は葉隠に沢山出てくるので、葉隠における非科学話の典型といってもよいでしょうが、このような常朝の立場は、一体中国以来の孝の流れの中にどのように位置づけられるのか、ただの面白い話なのか、それとも孝子伝の系譜につらなる部類か、勿論葉隠全体を貫く孝は孝子伝とは全然違うもっと淡白な、はじめに書いたとおりのものですが、常朝の生きた年代や当時の思想状況を考えると、全国的な孝子伝の流行とも無縁でもないようにも思われます。
