葉隠と正徹

葉隠の諸相における「葉隠と正徹」                嘉  村   孝

葉隠には、徹書記とも呼ばれた中世の歌人正徹(一三八一~一四五九年)の話しが出てきます。それは、京都・東福寺の書記正徹がある時五条辺りを通ったとき大雪が降り、途中鷺が飛んでいるのを見て、「飛び帰る雲井の鷺の羽風よりわが色こぼす雪のあけぼの」という歌を読み、その後、ある家に着いて亭主に会った際、「今朝夢に定家卿が現れて、飛び帰る雲井の鷺の羽風よりわが色こぼす雪のあけぼの、という歌を詠まれました」と言われたので、正徹は「それは今途中で自分が詠んできた歌だ」と言った、という話です。はっきり言って非科学的ともいえるこの話は随分有名な話のようで、あちこちに出てくるようです。

この正徹という人、一生涯に三万ないし四万の歌を詠んだとのことで、足利義持の庇護を受け

たのち、足利義教から冷遇されて京都の今熊野に蟄居していた際、火事にあってそれまでに読んだ二万数千首の歌が全て灰になり、しかし更にその後一万数千首の歌を詠んで、それが「草根集」という歌集に載っているというわけです。ものすごい数といわねばなりません。

この人の歌論書を「正徹物語」といいます。

右のとおり藤原定家を継ぐと言われますが、定家との関係を見るために、正徹の歌「むら雨のふる江をよそに飛ぶ鷺の跡まで白きおもだかの花」という歌と、定家の「拾遺愚草員外」にある歌で「風雅和歌集」にも採られている「おもだかや下葉にまじるかきつばた花踏みわけてあさる白鷺」の歌を対照してみましょう。

前者の「村雨の・・・」の歌は、雨が降っている江をよそに飛ぶいわば白い鷺の後にまで白いおもだかの花があるというわけで、一種朦朧とした雰囲気が漂っていることが分かります。まさに定家についていわれた幽玄の境地といって良いのかもしれません。一方、定家の「おもだかや・・・」のほうは、白い花が咲いているのかどうかちょっとよく分かりませんが、水草の下の葉っぱにかきつばたの花があって、それを踏み分けてあさる白鷺というわけですから、こちらのほうは極めて絵画的というか多色擦りの絵画ともいうべきもので、定家のほうが幽玄体で、正徹がそれを徹底したというふうに見るのは、正徹はよいとして、はたして定家のほうは幽玄体なのか・・・門外漢の私にはどうもよく解せないところです。

そこで、それはそれとして、何故葉隠にこのような正徹の話しが載っているのかということで

すが、鍋島藩の二代目藩主であった鍋島光茂は、随分と和歌に凝っていたようで、亡くなる直前、山本常朝が三条西実教より古今伝授を受けて光茂に届けたという話が有名です(ただし、正式の古今伝授ではないでしょう)。

この古今伝授を始めたのは東常縁といって、元々は千葉一族ですが、岐阜県の郡上八幡の殿様でした。常縁は、正徹の弟子でもあります。つまり、古今伝授を受けた光茂、その古今伝授は東常縁から出ていて、その東常縁の先生は正徹、というわけで、葉隠と一応の筋が通ってくると言えるのかもしれません。勿論これを実証する事はとても私にはできませんが。

それはそれとして、武士道全体の流れからいうと、このような古今伝授や正徹などという話は、

はたして山本常朝が大好きだった鍋島直茂の時代にはどうだったのか、と考えてみますと、鍋島直茂は花の活け方もよく分からず、秀吉から「花はわろく候へども、活けぶりは見事」と言われたような人であり、とてもとてもこのような和歌などに凝っている暇など無かったことでしょう。 

かつて九州を支配した今川了俊は、やはり正徹と関係深い人ですが、彼などとは違い、いわば趣味はそっちのけにして、血みどろになって自己の勢力の維持・拡張にまい進した人です。

このような点においても、直茂の時代や生き方と葉隠のいわば落ち着いた時代との間には相当な乖離が見て取れるということではなかろうかと思います。いずれにしても、正徹の話しは葉隠の内容を面白くしている一エピソードと言えることは間違いないでしょうが、「不思議」な正徹の話は、その他にもいろいろと不思議な話しを語る定朝さんの一テーマだったのかな、というような気もして、そのまた根元を探りたいものだと思っています。

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