葉隠の諸相 ~大遠忌と武士道・佐賀 嘉 村 孝
今年は法然上人が亡くなってから八〇〇年、親鸞聖人が亡くなってから七五〇年ということで、それぞれ大遠忌が行われ、京都の町は賑わっています。
このお二方、武士道や佐賀県とは全く関係ないかのようですが、その「地下水脈」を掘り進めていけば、やはり大きな関係があると思っています。
まず、先生である法然上人ですが、九歳のとき(一一四一年)、その父である漆間時国を伯耆権守源長明の嫡男明石源内武者定明に殺されてしまいました。
その際父時国は「我死去の後、世の風儀に随って敢えて敵を恨ることなかれ。これ偏に先世の報ひなり。若し此の讐を報んとおもはば、世々生々、互に害心を懐て在在所所に輪廻絶ゆることなからん。生ずるものは皆死を悲しむ。愁憂更に限なし。我此疵を痛む。人又何ぞ痛まざらん。我此命を惜む。人豈に惜まざらんや。我が情をもて人の思を知るべし。然らば即ち一向に専ら自他平等の済度を祈り、怨瞋悉く消て、親疎同じく菩提に至らんことを願ふべし。」 と言って息子である後の法然上人・小矢兒に敵討ちを思い止まるよう諭しました。
これについて、日本の仏教学における大学者である矢吹慶輝博士は「武士道の形を捨ててその意を取ったもの」という評をしておられます。
そもそも敵討ちというもの、本来的には国家(天皇)の刑罰権を個人が行使するという意味ではいわば職権(大権)の侵奪であり、許されないことというのが法的な原則であったろうと思います。
しかし一方、もう一つの、より影響を及ぼした法観念ともいえるものとしての「孝」という概念が強くなってくると、許可を得れば敵討して良いとか、たとえ許可を得ていなくてもそれは誉められるといった方向になっていったようです。
特に江戸時代において、儒教主義がより強調されてきて、また武士道においても儒教主義の武士道が広まってくる時代になってくると、こうした敵討ち観念が強くなってきました。
しかし、そういった日本の歴史の中の大きな底流に対して、法然上人は仏教の立場からその敵討ちを否定することを思考の出発点としたというわけです。
矢吹博士は、「若しこの遺言がなかったなら、恐らく小矢兒は片々たる復讐談中の一人物で終わったかも知れなかった。―曽我物語のようにー」と述べられています。
さて、こうした一般的武士道の話しにもまして浄土真宗の方は、より葉隠に近いものがあります。関が原の戦いの際、佐賀藩の初代鍋島勝茂は伏見城を攻めて鳥居元忠らを憤死させました。その後、伊勢の阿濃津城に転戦しているところへ関が原の敗報が届き、進退窮まったとき、家康のそばにいた小城出身の閑室元佶(足利学校九代目の庠主であったため学校御方とも呼ばれ、葉隠にも佶長老などとして登場します。この時活躍した久納市右衛門も主要登場人物です。)が取りなし、更に西本願寺の准如宗主の尽力によりなんとか取り潰しを免れ、柳川の立花を討つことによって佐賀の主であることを維持できたといわれます。そのため、勝茂は佐賀に願正寺を建て、県内の多くの寺院を浄土真宗に宗旨変えさせました。
その結果、佐賀県には「佐賀門徒」として多くの浄土真宗の門信徒がおり、龍谷短大や龍谷学園もあるというわけです(龍谷とは西本願時の正式名称龍谷山本願寺の山号から。一六三九年西本願寺が設立した学寮を起源としています)。
こうして西本願寺と佐賀藩はもちろん、葉隠と西本願寺も本当は深いところでつながっていると思っています。
最後に蛇足を一つ。この願正寺には時刻を告げる太鼓、つまり午砲があったそうで、それがいつ始まったか私はまだ調べていませんが、その発想自体は、正に新しい天文、暦法との関わり、逆にいえば、大化の改新・延喜式につながる律令的世界の中から生まれてきたものでしょう。その天文、暦法は、中世にはいっぺん沈んで、近世、というか江戸時代も中期にさしかかる葉隠の少し前ころ渋川春海と関係深い保科正之、水戸黄門らによって再興され、葉隠より遅れる吉宗なども全く同じです。こうした人々の新しい、いわばアナログからデジタルに変わっていった「時刻・暦法」の発想に対して、葉隠のほうはどちらかというと中世的なアナログ思考。ここに二つの考え方の違い、つまり武士道の二つのタイプとのパラレルな姿を見ることができると思うわけです。
何はともあれ、西本願寺には大変お世話になった佐賀藩であったということでしょう。今回の七五〇回大遠忌に参拝してみますと、本堂の前の経蔵の中に、有田焼の焼き物があることを発見しました。西本願寺のおかげで何とか命長らえた鍋島藩としては、是非ともそういったものを寄進しようという気持ちになったことは大いに窺うことができます。
ちなみにこの准如宗主は相当な学者であって現在も西本願寺で行われている雅楽などもこの准如宗主の時に始まったのだとか。更に准如宗主の兄である教如は、元々顕如のあとを継ぐ本願寺法主でしたが、豊臣秀吉によって廃され、そのあとの徳川氏は、真宗の勢力を分散させようという本多佐渡守の具陳により、兄の教如に東本願寺を寄進。このような宗教政策は真言宗など他宗派についても見られるところで、江戸初期の幕府の深謀遠慮が見られるところです。葉隠の諸相 ~大遠忌と武士道・佐賀 嘉 村 孝
今年は法然上人が亡くなってから八〇〇年、親鸞聖人が亡くなってから七五〇年ということで、それぞれ大遠忌が行われ、京都の町は賑わっています。
このお二方、武士道や佐賀県とは全く関係ないかのようですが、その「地下水脈」を掘り進めていけば、やはり大きな関係があると思っています。
まず、先生である法然上人ですが、九歳のとき(一一四一年)、その父である漆間時国を伯耆権守源長明の嫡男明石源内武者定明に殺されてしまいました。
その際父時国は「我死去の後、世の風儀に随って敢えて敵を恨ることなかれ。これ偏に先世の報ひなり。若し此の讐を報んとおもはば、世々生々、互に害心を懐て在在所所に輪廻絶ゆることなからん。生ずるものは皆死を悲しむ。愁憂更に限なし。我此疵を痛む。人又何ぞ痛まざらん。我此命を惜む。人豈に惜まざらんや。我が情をもて人の思を知るべし。然らば即ち一向に専ら自他平等の済度を祈り、怨瞋悉く消て、親疎同じく菩提に至らんことを願ふべし。」 と言って息子である後の法然上人・小矢兒に敵討ちを思い止まるよう諭しました。
これについて、日本の仏教学における大学者である矢吹慶輝博士は「武士道の形を捨ててその意を取ったもの」という評をしておられます。
そもそも敵討ちというもの、本来的には国家(天皇)の刑罰権を個人が行使するという意味ではいわば職権(大権)の侵奪であり、許されないことというのが法的な原則であったろうと思います。
しかし一方、もう一つの、より影響を及ぼした法観念ともいえるものとしての「孝」という概念が強くなってくると、許可を得れば敵討して良いとか、たとえ許可を得ていなくてもそれは誉められるといった方向になっていったようです。
特に江戸時代において、儒教主義がより強調されてきて、また武士道においても儒教主義の武士道が広まってくる時代になってくると、こうした敵討ち観念が強くなってきました。
しかし、そういった日本の歴史の中の大きな底流に対して、法然上人は仏教の立場からその敵討ちを否定することを思考の出発点としたというわけです。
矢吹博士は、「若しこの遺言がなかったなら、恐らく小矢兒は片々たる復讐談中の一人物で終わったかも知れなかった。―曽我物語のようにー」と述べられています。
さて、こうした一般的武士道の話しにもまして浄土真宗の方は、より葉隠に近いものがあります。関が原の戦いの際、佐賀藩の初代鍋島勝茂は伏見城を攻めて鳥居元忠らを憤死させました。その後、伊勢の阿濃津城に転戦しているところへ関が原の敗報が届き、進退窮まったとき、家康のそばにいた小城出身の閑室元佶(足利学校九代目の庠主であったため学校御方とも呼ばれ、葉隠にも佶長老などとして登場します。この時活躍した久納市右衛門も主要登場人物です。)が取りなし、更に西本願寺の准如宗主の尽力によりなんとか取り潰しを免れ、柳川の立花を討つことによって佐賀の主であることを維持できたといわれます。そのため、勝茂は佐賀に願正寺を建て、県内の多くの寺院を浄土真宗に宗旨変えさせました。
その結果、佐賀県には「佐賀門徒」として多くの浄土真宗の門信徒がおり、龍谷短大や龍谷学園もあるというわけです(龍谷とは西本願時の正式名称龍谷山本願寺の山号から。一六三九年西本願寺が設立した学寮を起源としています)。
こうして西本願寺と佐賀藩はもちろん、葉隠と西本願寺も本当は深いところでつながっていると思っています。
最後に蛇足を一つ。この願正寺には時刻を告げる太鼓、つまり午砲があったそうで、それがいつ始まったか私はまだ調べていませんが、その発想自体は、正に新しい天文、暦法との関わり、逆にいえば、大化の改新・延喜式につながる律令的世界の中から生まれてきたものでしょう。その天文、暦法は、中世にはいっぺん沈んで、近世、というか江戸時代も中期にさしかかる葉隠の少し前ころ渋川春海と関係深い保科正之、水戸黄門らによって再興され、葉隠より遅れる吉宗なども全く同じです。こうした人々の新しい、いわばアナログからデジタルに変わっていった「時刻・暦法」の発想に対して、葉隠のほうはどちらかというと中世的なアナログ思考。ここに二つの考え方の違い、つまり武士道の二つのタイプとのパラレルな姿を見ることができると思うわけです。
何はともあれ、西本願寺には大変お世話になった佐賀藩であったということでしょう。今回の七五〇回大遠忌に参拝してみますと、本堂の前の経蔵の中に、有田焼の焼き物があることを発見しました。西本願寺のおかげで何とか命長らえた鍋島藩としては、是非ともそういったものを寄進しようという気持ちになったことは大いに窺うことができます。
ちなみにこの准如宗主は相当な学者であって現在も西本願寺で行われている雅楽などもこの准如宗主の時に始まったのだとか。更に准如宗主の兄である教如は、元々顕如のあとを継ぐ本願寺法主でしたが、豊臣秀吉によって廃され、そのあとの徳川氏は、真宗の勢力を分散させようという本多佐渡守の具陳により、兄の教如に東本願寺を寄進。このような宗教政策は真言宗など他宗派についても見られるところで、江戸初期の幕府の深謀遠慮が見られるところです。
