弁財嶽争論と黒田藩の担当者・貝原益軒

     葉隠の諸相~弁財嶽争論と黒田藩の担当者・貝原益軒~  嘉 村 孝

葉隠の中には、有名な脊振山弁財嶽公事のことが出てきます。これは、今の福岡・佐賀の境について、分水嶺を境として分けるか、境はもっと南か、といった争いで、元禄六年(一六九三年)にまとまるまで約六年間にわたり、佐賀藩と黒田藩とが幕府の評定所で争った紛争です。結局佐賀藩の勝訴となり、脊振山の頂は佐賀のもの、と認められましたが、当時の佐賀藩主である鍋島光茂は「御参勤の大阪御逗留内、弁財嶽境公事御利運の段申来り候節、『同役と云ひ、隣國の事なるに、笑止(気の毒)の事』」と述べ、「くろ(「に」か)をさへゆづりし御代もあるものを山をあらそふことのおろかさ」という歌を詠んでいます(葉隠・聞書五)。「同役」とは、長崎御番を隔年にしている隣国同士であることを言います。

ところで、この弁財嶽公事の黒田側の担当者に有名な貝原益軒がいます。貝原家は元々黒田家と同じく岡山県から福岡にやってきた家柄のようですが、さして有力な武士というわけではありませんでした。

益軒(それまでは損軒など色々)は、最初、黒田騒動で有名な黒田忠之に仕えましたが、忠之の勘気をこうむり、二一歳から七年間ほど浪人の身を過ごしました。しかし、この間勉強怠りなく、忠之が亡くなって、次の光之になってから出仕を許され、江戸や、特に京都等で林家の人々、山崎闇斎、木下順庵、中村惕斎、後に伊藤仁斎など多くの儒学者と交わりました。

私は彼の「生き方」に最も興味を引かれるとともに尊敬しています。彼は二十代の頃から本を書いているようですが、むしろ本格的に書物を書きだしたのは七十歳を過ぎてからで、遂に八四歳のとき、「大疑録」を書き、その年亡くなりました。

大疑録は「大きく疑う書」ですが、およそ学問においては全て疑うことが大切なことだと思っています。勿論あらぬ粗探しをするような趣旨のものではなく、葉隠の言う「これも非なり非なりと思ふ」精神で学問を極めることを言うのだと思います。益軒は「大きく疑えば大きく進む」と言っており、葉隠のいう「非知り」=聖の典型だったのかもしれません。

では、そのような彼は、儒学の中でどのように位置づけられるでしょうか。上記のとおり朱子学者ですが、大疑録に見られるとおり、朱子学の枠を外れない中での徹底的な疑いを持っていました。京都では山崎闇斎らとも会い、彼と関わり深い渋川春海や吉川惟足とも会って、主君光之は保科正之とも親戚ですが、ストリクトな彼ら闇斎系とは合わなかったようで、どちらかというと穏当(折衷学派)。逆に言えば通俗的ともいえるかもしれません。そんな中、「文武訓」など武士の生き方についても書いています。

私としては、彼らの論争の中心である理気二元論や一元論についてはよく分かりません。これをもっと追究しようとするならば数学にならざるを得ず、最近出版された川原秀城教授の「朝鮮の数学史(朱子学的な展開とその終焉)」のような、次々と数式が出てくるような話しにならなければならず、一方、「気」がどうしたのこうしたのなどと通俗的平面で論じているようでは、西洋の哲学に負けてしまうのではないかとも思っているのです。

そういうわけで、抽象論よりも、益軒の実践的な本にこそ引かれます。その中で是非取り上げたいのは「筑前国続風土記」です。益軒は一旦出来上がった本書の改訂のため、それこそ八十歳になるまで黒田藩の支配地域をくまなく巡って古文書や古老の物語などをとりまとめ、この本をまとめました。活字本でも二十センチとは言わないくらいの厚さのある大きな本で、その中にも当然脊振山のことが出てきます。それによりますと、脊振山からは、遠く朝鮮半島まで望めるとのこと。私の登山時には見えたことがありませんが、秀吉の名護屋城からは対馬が見えましたから多分本当でしょう。彼は、裁判の敗訴原因についても色々と反省の弁を述べており、これも面白いものです。「大和本草」、「養生訓」などで有名な益軒ですが、朱子学者らしい実証的な態度をもって、現在でも十分通用する(どころか最も詳しい)こんな本を書いたことに、その学問への姿勢と相まって、正に尊敬の念を覚えるのです。

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