葉隠の諸相 「四誓願の読み方」 嘉 村 孝
四誓願は、葉隠の「夜陰の閑談」の末尾にある四つの目標みたいなものです。
そもそもこの誓願自体、本来仏教的な言葉ですが、北部九州の位置づけを考えますと、うっかりするとキリスト教との関係もないとは言えません。当時の日本のキリスト教では、やはり誓願を立てているわけですから、キリスト教との縁がないではない葉隠の場合、その辺りも視野に入れなければならないのではないかと思っています。
それはともあれ、まず一番目の「武士道においておくれ取り申すまじき事」ですが、これについては、そもそも武士道という言葉はそんなに古い言葉ではなくて、江戸時代の初め頃にやっと出来上がったものであるということは久米邦武先生をはじめとしてかねて言われていることであり、先にも書いたとおりです。一体どうしてこんな言葉が葉隠のここにあるのかということについては、右に併せて、特に武士道という言葉の嚆矢とも言われる「甲陽軍鑑」などとの関係もよく考えてみる必要があるのでしょう。
次に、二番目は「主君の御用に立つべき事」ですが、そもそもこの四誓願の前提には、石田一鼎によって唱えられた三誓願というものがあります。これは彼の要鑑抄の中にあるものですが、一番最初が「武士道において未練をとるべからず」、二番目が「先祖の名字を断絶すべからず」、三番目が「畢竟主君の御用に立つべし」です。私はこの三誓願の順番が案外大事なんじゃないかと思っています。つまり、「先祖の名字を断絶すべからず」というのは、要は「孝」であり、アジアにおける忠と孝ということを考えてみますと、儒教の思想において最も大切なものとされたのは「孝」でした。主君の役に立つということも、それによって「身を立て道を行い名を後世に掲げ、もって父母を表すは孝の終わりなり」と孝経に書いてあるとおり、孝こそが基本であり、忠はその孝を表すことの一つの道具的な面さえあったのです。
したがって、儒教により近い石田一鼎は、孝の本質ともいえる「先祖の名字を断絶すべからず」というものを正に二番目に置いてきたというふうにも言えるのではないでしょうか。一鼎自身、「国家(ここでは主君)の御用に立ち、先祖の名家を連続し、親の名を挙ぐるは孝の用なり」と述べています。もっとも、一鼎は、この「名字」について「但し主命ならば名字をかふるとも科なかるべきか。天罰を蒙るべきとて主命に背かば、忠とは言い難し」とか「身体髪膚皆これ主君の物にて己が有にあらず」など、やはり主君の御用に立つことを強調しています。このあたりは儒教主義が強調されていく世の中において、本来的な孝の尊重から忠の尊重へと変わっていく過程に彼が位置づけられていたことによるとも言えるでしょう。一鼎の中には「葛藤」があるものと考えます。
それに対して、葉隠の常朝では、彼より年代的には降りますから、明らかに主君の御用にたつべきことが先に来て、二番目となります。ちなみに、上記のとおり孝を先行させるはずの中国でも、後世孝経に対する忠経というものが作られました。ただし、それは一種の偽書的なものであり、またその分量も極めて貧弱なものです。このあたりにも孝と忠との間に本来本質的なウェイトの違いがあることが顕著に現れているわけです。
そして、右のとおり、特に幕藩体制がしっかり固まってくると、孝よりもむしろ忠を重んずる方向性が現れ、ましてや明治維新になれば、水戸系の学者である内藤耻叟(ちそう)が、小学、孝経、忠経を三点セットにして解説する本「小学・孝経・忠経講義」を出したり、というようなことにもなります。
しかし何といっても葉隠の最大の特徴は、四番目に、石田一鼎にはなかった「大慈悲を起こし人の為になるべき事」があることでしょう。つまり武士道と慈悲とが結びついているというところ、ここにこそ葉隠の特徴があるのであって、儒教主義の武士道とは最も異なってくる点です。
私が中学生の時に興味を持った次郎物語においても、この四番目こそが下村湖人さんの最重要視するところでした。現代の武士道における取上げ方の中には、この慈悲の武士道の面の強調が、残念ながら少ないと言わざるを得ません。
この点については、もう一度よく考えてみることが必要ではないかと思う次第です。
