葉隠の諸相
―ゾルゲ事件の尾崎秀実、彼に「葉隠精神」を語った人と、その反応―
嘉村孝
なぜ尾崎秀実と葉隠とがなぜ結びつくのかということですが、彼が弁護人に送った手紙(岩波現代文庫の『愛情は降る星の如く』所収)の中に、このようなくだりがあるわけです。
それは、昭和一八年一二月七日付、弁護人の堀川祐鳳さん宛であって、「事件のみならず小生の心構えに関してもおきかせくだされ感謝に堪えません。ことゾルゲ君と比較され小生の腹の据りが足りないのでは無いかとの第三者の批判をずばりとお伝え下さったことは、まことに省みて恥じ入るとともに、一道の清風を感ずるものでありました。恐らくは、小生のくだらなさが、外に反映するものと存ぜられます。併しながら、小生におきましても人生の本義に徹せず、或いは未だ生死の問題に懐疑しているかの如きことは断じてありません。小生の内部は昔から変わらぬ情熱と誠実さをもって一貫していると確信しております。ただ過去の生活環境と生き方の態度によって、表面的に葉隠武士的単純さを示し得ないがために、表面的な第三者の観察の結果、本質を誤られる点が多いのではないかと存じます。」と。
彼は、みすず書房の現代史資料中の供述書の中でも『葉隠』をより詳しく語っています。
「私は先に佐賀の『葉隠』を読み痛く感心させられました。これは極めて素朴な言葉で語られた武士の修養書ではありますが、死を当面の対照として真剣にこれに打ち勝って行こうとする意図に於て、洵に宗教的の境地にまで到ったものだといひ得るでありませう。『武士道とは死ぬことと見つけたり』といふ言葉の如き、何とずばりとした爽やかさでせう。また『何事も偽りの世の中に死ぬるばかりぞまことなりける』とも申して居ります。これは死の厳粛さを真に感じ、しかも実感を以て回避することなく之に直面し得た人にして始めて云ひ得る言葉であることを私は感覚的に証することが出来るのであります。」と。一応、『葉隠』の代表的な部分(常朝のしゃべったところ?)を読んだのでしょう。
昭和一〇年代といえば雨後の筍のごとく、たくさんの「葉隠本」がでました。それらは、いわゆる「孝白本」即ち、栗原荒野編、本来、七~八センチメートルの厚みのある『葉隠』が、わずか一センチか二センチに縮められて、要は『葉隠』という禅をバックにした要素が強い本も、水戸学的な儒教をバックにした武士道の本も、全部十把一絡げにして、『葉隠』と名前をつけたような本(例えば『水戸葉隠』)が、ポピュラーなものになっていたのでした。
尾崎の読んだのがどの程度の『葉隠』かは分かりませんが、弁護士さんが尾崎にいまだ「死ぬこととみつけたり」的な覚悟が足りないといって、励ましか何かをしたのかもしれません。それに対して尾崎は、上記のとおり述べて、私はちゃんと覚悟は出来ているから安心しなさい、というようなことを言っているとこういうことになるのでしょうか(上記現代史史料では、日蓮、宣長などたくさんの思想家の話が出てきますから、さすがに色々考えたのでしょう。)。どちらにせよ、このやりとりは、昭和という「時代」を背負い、『葉隠』というものの全体やバックを少なくとも、よくは知らずに行われた一つのやりとりでした。
ここまでが『葉隠』の話で、肝心なのはその先です。
そもそも、この尾崎秀実はどういう人物か。世の中ではスパイという風に言われていますが、中にはいわば軍国主義の犠牲者のようなことを言っている人もいます。一体どちらが「正しい」のでしょう。
彼の言を見ると、この手紙の次の段で「之を要するに、私は終始、コミンテルンのために協力してきたつもりであり、また、ゾルゲその人もコミンテルンから派遣せられたものと信じて居ったものであり、コミンテルンの本質はもとより超国家的組織であり、私の政治目標もまた、常に、世界的共産、大同社会の実現を志して来たものであった。
従って私の本部への情報提供は、国防保安法の『外国へ漏洩する目的』を以てしたものでは決して無かったのであります。コミンテルンはソ連邦とは理論上はもとより実際も別物です。」と書いているのですから正真正銘のスパイであったことが分かります。ただし彼は、ソ連のためにやったのではない、そのソ連の上にあるコミンテルンのためにやったのだ。だから、国防保安法に違反していないと言うのです。
このような彼の言から見ても、我が佐賀の真崎勝次少将にもつながる三田村武夫さん(内務省警保局から衆議院議員。昭和一八年九月警視庁に逮捕される。のち、自民党代議士)が『戦争と共産主義』の中で述べられるとおり、彼こそ、本当の筋金入りの共産主義者だったし、徹底したスパイであったと思います。
こうした「確信犯」とも言うべき尾崎に対し、三田村さんは、「筆者はコムミニストとしての尾崎秀実、革命家としての尾崎秀実の信念とその高き政治感覚には最高の敬意を表するものであるが、然し、問題は一人の思想家の独断で、八千万の同胞(つまり日本人)が八年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失うことが許されるか否かの点にある。同じ優れた革命家であってもレーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して闘っている。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものをもっていたとしても、十数年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を狩り立て、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進して来たのだ。正義と人道の名に於て許し難き憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。」と書かれるわけです。
尾崎は妻である英子さんにも共産主義者であることを秘して、ただひたすら、コミンテルンの手先としての役割を果たそうとしました。その果たし方は、当時の近衛総理大臣の最側近のブレーンとして、オピニオン雑誌である「改造」「中央公論」といった雑誌の巻頭を飾る論文に寄り、上記のとおり徹底的に蔣介石政権を叩かなければいけないという事を言ったわけです。
それに対して、真崎大将はもとより少将たち更には近衛、吉田茂、関係の深い松本重治さんたちは、蔣介石とは提携しなければいけない(日本の真の敵はソ連である。)という考え方でした。彼の方はそのような考え方が通ったのではソ連がつぶれ、国際共産主義が成り立たないと思ったので、その逆の方に議論をリードしていき、近衛総理の「蒋介石を対手(あいて)にせず」という声明についても、相当な貢献をしていたようです。ですから、彼を軍国主義の犠牲者などと言っているのはやはり間違いだと思います。
なお彼は、ソ連とコミンテルンの関係について、上記のように述べますが、本当にそうだったのか。ベトナム戦争の時のベトコンと北ベトナム軍との関係もそうですが、実際のところ、コミンテルンはソ連の手先そのものだったのではないでしょうか。
彼と当時行動を共にした人の中には、戦後いわゆる「左」のトップになった人が多くありますが、それだけでなく、軍人の土肥原賢二大将のようなA級戦犯もいます。こうした「乗せられた人」には正に責任があるはずです。つまり、彼ら、つまり真崎兄弟や吉田茂らの反対派は、見事に尾崎らの策にはまってしまった、ということでしょう(むしろ近衛総理こそ。)。
彼の死後、上記『愛情は降る星の如く』などという本がまとめられましたが、この題は彼がつけたわけでもなく、遺族がつけただけ。「愛情」については、米国人の女性共産主義者スメドレーとの関係など「いろいろ」です。
とにかく、こうした情緒的表題などによって、本質を見失ってはならないと思います。また、三田村さんを殊更謀略論に持っていくのも問題だと思います。前掲書の戦後の再版本には、馬場恒吾、岩淵辰雄、即ち、大隈重信につながる人々が推薦文を寄せており信頼すべきものだと思います。
