葉隠の諸相
―武富廉斎の『孝子伝』の話と、『葉隠』との対照―
嘉村孝
「孝」という観念については、京都大学教授を務められた桑原隲蔵(じつぞう)先生(桑原武夫さんのお父さん)の言葉に、「孝道は支那の国本で、又その国粋である。故に支那を対象とする研究には、先ずその孝道を開明理解しなければならぬ(『支那の孝道 殊に法律上より見たる支那の孝道』)」とあります。
『孝経』の「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という考え方が中国の古い昔からの中心的な観念として存在するのだということです。そして、これが歴史の中に時々頭をもたげては色んな事象を起すので、中国だけではなく日本や、特に韓国のことについても、そのことを踏まえることは大切だろうと思うのです。
そこで、この「孝」の観念を、肥前において、一七一六年(享保元年)の『葉隠』成立の前、元禄時代にしっかり打ち出したのが誰かというと、一六九五年(元禄八年)から『月下記』を書き始めた武富廉斎ということになります。
福岡女子大学教授を務められた井上敏幸先生の論考(かつて佐賀に存在した雑誌『新郷土』創刊四〇年記念出版『佐賀の文学』所収)を引用すると、武富廉斎は、「佐賀の白山に住した藩御用達の呉服商で、代々長崎貿易に従事し、町人頭の家格を持った富商であった。元禄七年、五八歳の折、鍋島綱茂から藩の儒者に仰せつけられ、……儒学に熱中した廉斎は元禄五年私財を投じて『大財聖堂』を建て、このことによって後年、多久茂文の『多久聖廟』建設に際し、様々な形で、その息子の英亮と共に参画した」とされます。
廉斎は中国の明末の動乱期に日本の佐賀にやってきて今宿などを支配した明の十三官の曾孫であり、上記のとおりの富商です。現在、佐賀市大財町(おおたからまち)には「明十三橋(あけとみばし)」があり、立派なご子孫もたくさんおられます。廉斎は、当代の著名な儒学者、伊藤仁斎、藤井懶斎(らんさい)、貝原益軒などとも広く交わっていたそうで、五九歳の折に書かれた『月下記』も、こうした広い学問的交友の中から着想したもので、藤井懶斎の『本朝孝子伝』(一六八四)をよりどころにし、地元肥前を含めた多くの孝子を登場させています。佐賀にもたくさんの孝子がいたわけです。
そしてそのころは、全国的にも、「孝子伝」が次々と生れてきますが、武富廉斎の曽祖父が上記のとおり儒教国家・明の内乱をさけて渡来した一人であったことが極めて大きいと思います。つまりは「孝」の拡大傾向も国際関係のなせるわざです。
冒頭に書いたとおり、孝はアジア文明の本質で、「孝子伝」自体、黒田彰先生の『孝子伝の研究』などによれば相当古い歴史をもっていて、漢の時代から孝子を載せた本や焼物があり、その中には、孟宗竹で有名な孟宗のように真冬にタケノコが食べたいと言う親のために一生懸命探したらタケノコが生えてきたとか、養老の滝のように、親孝行の息子のために滝がお酒になったなどという奇譚もあります。あるいはむしろ、復讐譚。親が殺されたときの敵討ちも孝から出てきます。
そのころ、幕府も孝の子供を徹底的に顕彰するという方針を打ち出していきます。ですから江戸時代の武士の価値観を決めたのがこの国際的インパクトによる「孝」の発想なのだと。そこから色々なものが出てきたのだということはやはり押さえておかねばならないことでしょう。
これに対して、『葉隠』とほぼ重なってくる井原西鶴は『本朝二十不孝』という、逆に親不幸の人を書くと言うので、これは正に芸術家らしい「逆らい方?」かなと思うわけですが、とにかくおもしろい。
そして、井上先生が以上に続けて挙げておられるのが、『葉隠』です。
井上先生はそこで『葉隠』を、この『月下記』と同じく『仮名草子』として取り上げておられ、「『月下記』は人倫の道としての「孝道」に焦点をあて、朱子学的規範と朱子学的道徳への目覚めを促そうとするものであったが、これに対して、『葉隠』はむしろ、儒教的な士道論に対する批判的姿勢を持つものであった。さらにいえば、儒教の影響を拒みつつ、戦国武士の思想の余習を、その発想の核として、佐賀藩主に対し、また藩そのものに対する武士の献身の伝統を心情の内面に向けて深く掘り下げたものであった」とする『日本思想大系二六・三河物語・葉隠』相良亨先生の見解に賛成しておられます。私もそれが正しいと思いますし、真の武士道理解のために、相良先生やその先駆者・和辻哲郎先生の考え方は必須です。
井上先生はその論考の末尾で「『月下記』と『葉隠』とは、孝道論(前者『月下記』・士道論)と士道論(後者『葉隠』・むしろ武士道論)という違いはあるものの、文治主義が浸透してくる元禄時代佐賀藩の思想交代劇の一部を垣間見せてくれる、恰好の仮名草子風著作物だったのである」とされていますがまさにその通りでしょう。それは全国的な傾向でもあります。
元禄という時代が、戦国時代から文治主義の時代へと移行していく、その過程の中にある『月下記』であったり『葉隠』であった。そのバックには、改めて、国際関係の変化が重要であったということを忘れてはならないというのが私の考えです。
