山本常朝の儒教性

葉隠の諸相 ~山本常朝の儒教性~            嘉  村   孝

山本常朝という人は極めて複雑な人物であると思います。

彼は、ご承知のとおり、二代佐賀藩主鍋島光茂のおそばに仕えて侍の生活

をしていたわけですが一七〇〇年のその主君の死に際して、光茂自身が制定した追い腹停止令のため殉死することができず、黒土原に隠棲。一種の僧の生活をしたというのがオーソドックスな見方でしょう。

彼の書いた『寿量庵中坐の日記』は、その隠棲の日々を記したものですが、それはまさにお坊さんの生活です。かつて三島由紀夫は、佐賀出身の東京大学名誉教授、相良亨先生との対談の中で、葉隠の持つ陽明学との関わりを述べていましたが、相良教授はそれを明確に否定され、曹洞の禅の影響を指摘しておられることは、まさに正しいと言わねばなりません。残念ながら三島さんには、そのあたりの実証性は全く無かったのです。

そのように仏教をバックに持つ葉隠のはずですが、何人かの学者が指摘するように、「無実の切腹をおおせつけられても喜んで死になさい」など、儒教式武士道、即ち水戸学や会津の学問の傾向と極めて似たことを常朝が述べているのも事実で、そこが常朝のわかりにくさともいえます。

その拠ってきたるところはどこにあるのか。それはもちろん、常朝の先生である湛然の仏教の影響以上に、もう一人の師である石田一鼎の影響があるからだということになります。

一鼎もこれまた複雑な人物で、儒学者と称しながらその内容には極めて仏教的なところもある人物です。そもそも中国における朱子学の成立に仏教が極めて大きな影響を与えたという指摘も昔から言われていることですから、これは当たり前とも言えるかもしれませんが。

そこで、そうした面から、常朝の一生を考えてみると、彼の武士の生活においては、家老になることがその目標でした。そして、家老になったならば、殿様に諌言を行うことこそが自分の生きがいになるだろうということでした。この諌言を政治制度としてみた場合、一体どのような意味があるのでしょうか。

儒教の故郷中国では、台諌という制度があって、家来は主君に対して、台諌を通して諌言をしていくという仕組みがありました。現に現在の台湾には、その伝統的中国思想の影響を強く受けた憲法即ち孫文の五権分立の憲法が存在し、立法、行政、司法の他に、監察院と考試院とが独立しています。行政の執行に対し、監察をしていくということが、三権以外の立派な権力として確立しているわけです。

したがって、儒学者たる一鼎の影響を受けた儒教主義の立場から、常朝がそのような諌言をなす立場になりたいと考えた、というのも十分考えられるわけです。 

もっとも、これだけではまだまだ実証性に乏しいということになるでしょう。

そこでもう一つ、常朝の重要な著作である『愚見集』を考えてみたいと思います。『愚見集』は子供の権之丞に奉公の心得を説いたものですが、この「愚見」という言葉、中国の前漢において武帝に仕えた儒教主義政治の確立者、董仲舒は、「陛下が格別の思し召しをもって私の罪をゆるくし、法網にかかることなく、思いのまま諌言を呈することをお許しくださる上は、いかで愚見を開陳せずにおれましょうぞ。」と述べています(中国古典文学大系・本田濟訳)。「愚見」は、諌言関係の文書には再三出てくる言葉でもあります。まさに諌言をすること、そしてそこにおいて「愚見」を述べることが自分の職責であるということが述べられているのです。

つまりこの常朝自身の筆になる『愚見集』は、常朝の持つ儒教主義を端的に具現したものと言えるかもしれません。

しかして、話しをもう一つ「ひっくり返す」と、禅と儒教とがそもそも極めて関係深いものだったようです。東南アジアの、僧には当然お布施を差し上げるという世界とは異なり、中国の仏教教団、特に禅宗では、自給自足が前提とされました。そして、そこでは、「葷酒山門に入るを許さず」に端的にあらわれた清規が施行され、儒教的規律が本質となりました。したがって、常朝は、禅の人なればこその儒教主義ともいえないではありません。

そのような意味で、常朝という人は、極めて複雑な何本かの柱を持つ人物であって、彼の言っていることを、ただそのまま字面のみを追って、ああすべきこうすべきというのでは、到底その真意は推し量れないのではないかと思います。

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