『上海時代』を読んで

葉隠の諸相―『上海時代』を読んでー           嘉 村  孝

 

 昨年は、戦後七十年ということもあって、様々な昭和史関係の本が再刊されました。

その中の一冊に松本重治氏が書かれた『上海時代』があります。松本さんは昭和一ケタの終りから十年代初めにかけて、同盟通信の上海支局長をされ、戦後は、麻布の東洋英和の隣にある国際文化会館の理事長をされました。私が「葉隠フォーラム」でお世話になっている株式会社アヅマの創業者、佐賀出身の東良雄様もそのメンバーでした。松本さんは上海に滞在中、その間の満州事変後から盧溝橋事件に至る日中関係について、その外交の裏面を詳しく綴っておられます。この本と、同時期に再刊された『外交官の一生』(石射猪太郎)なども読みあわせてみると、当時の生の事実が色々と浮かびあがってきて、参考になろうかと思います。

松本さんが上海に赴任されたのは、満州事変の後、昭和八年の塘沽停戦協定の更に後です。この塘沽停戦協定は極めて大きな意味を持つものではないかと思っています。即ち、それは熱河作戦の後、万里の長城のラインで、満州事変以後の行動を打ち止めにし、いわゆる関内(万里の長城の内側)には日本軍を入れないというものです。この時の参謀次長が佐賀の真崎甚三郎(当時の)中将。総長が閑院宮殿下で、このお二人のソリが合わず、後の真崎大将の教育総監更迭につながったと言われています(私が聞いている話ですが、もちろん本にも書いてあります)。

そして、その後、いわゆる華北政策として様々な問題が起ってきました。その結果出来上がってきたのが冀東防共自治政府、更に冀察政務委員会といったものであって、これらについてはアヘン貿易等々、様々な批判があります。こうしたことについて、松本さんはその裏面をよく書かれています。

そして、上記更迭を前提とした相澤三郎中佐の事件、更にそれを前提とした昭和十一年二月二六日の二二六事件後、日本内部の勢力は様変わりし、翌十二年七月七日の盧溝橋事件に至りますが、この経緯についても詳細です。松本さんやそれに関わり深い外交官たちは、いわゆる不拡大派だったのですが、日本国内の意図は、兵農未分離派とも言うべき真崎大将ら、即ち、真崎大将は、西本願寺の門徒として、葉隠の解説本においても極めて仏教的な見方をされており、儒教的傾向は少なく、どちらかというと、中世武士道派とも言うべきもので、いわゆる不拡大派ですが、そのような真崎大将が、ヒエラルキー重視の分離派(わかりにくいかもしれませんが、敢えて、こう分類)に首を切られ、純粋・熱血の青年将校が決起したことから、分離派の天下となり、同派の中国というものに対する認識のなさが、今日に至るまでのアジアの大問題の原因になった、と思っています。要は、中国というものを文化人類学的に見て行くということに欠けていました。

それというのも、中国という国は、北と南とが全く異なる国です。長年にわたり、本来の中国の王朝は南京をはじめとする南に置かれ、ここにはいわゆる頭の良い人も揃っており、清代における科挙の最高得点者・状元の輩出度を見ると、江蘇省が四十四人、浙江省は十三人。蒋介石が発した敦睦令のことも書いてありますが、要は、彼は関内だけは確保したかったし、共産軍のことを考えると日本と提携したかった。少々ラフに言えば、蒋介石の考えていたことはあくまでも中国は明朝に戻ること、即ち現在のチベットやモンゴルや新彊、そして東北は外しても良いとさえ思っていたことが彼の秘録からも窺えることを考えると、これらのことは極めて重要で、松本さんがそうしたことについて、日本人には全くその知識がなかったと述べておられることは、正に残念なことですが正鵠を得ていることではないかと思うわけです。

そうしたことを考えていくと、こうしたことの原因を作った江戸時代における「明治維新の元」が極めて大きな意味を持つといわなければならないでしょう。

この明治維新についての評価は、大将の弟で、私も幼少の折お会いした真崎勝次少将(当時衆議院議員)が、本や長野県などでの講演でも再三述べておられるところです。

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