葉隠の諸相 ―筑紫琴と佐賀との関係― 嘉 村 孝
佐賀県に近い福岡県久留米市の浄土宗大本山・善導寺には以下のとおり記した「筝曲発祥の地」の石碑があります。
「始祖 諸田賢順上人顕彰碑 天文三年(一五三四年)筑後国宮部 日向守武成の子として生れ、七歳のとき当山に入り僧となる。以来、当山に伝わっていた善導寺楽ならびに全国に伝わる寺院歌謡をきわめ、更に、明人鄭家定に七絃琴を学び、これらの音楽を整理して、筑紫箏を編んだ。この歌曲がわが国の箏曲の源流として受け継がれている。 元亀二年(一五七一年)三八歳のとき、竜造寺泉州公長信(安順)の招きを受けて多久に移り、還俗後は諸田蔵人賢順斎と号し、元和九年(一六二三年)七月一三日、九十歳で没す。法名 賢順養普。中央は、後陽成天皇(一五七一~一六一七年)の御前で弾奏され、天皇自ら命名された箏鳳凰を型どったもの。台塚は、箏曲伝承縁故者慰霊および糸塚、爪塚の供養碑。 平成三年八月一〇日 大本山善導寺 碑運営委員会」。
この流れですと、有名な多久安順、つまり龍造寺から鍋島への代替わりの中心人物の年齢に矛盾が生じてしまいますが、一応、善導寺と佐賀の特に多久とは、琴を通じて極めて深い関係があるようです。
諸田賢順は筝曲の世界では極めて有名で、彼は善導寺で、こうしてそれを大成した人と言われています。で
すから、善導寺には毎年、全国から筝曲の演奏者が集まり大規模な演奏会が開かれています。
賢順は、ここにあるように筑後の国に生れて善導寺に伝わった雅楽つまり善導寺楽を学び、明人より七絃琴
を学んだ上で筑紫琴を編んだとのこと。
ところで、琴とは一体何か。そもそも「琴瑟相和す」という言葉があるとおり、似たものとしての琴と瑟という2種類がまずあって、琴は今私共が言う琴とは別であり、今の琴と呼ばれているものは筝。元々の琴は、琴製造業者のお話しによると、元来中国にあって一絃であることに特長があり、その点が多数の弦を持つ瑟との違いです。スチールギターのように絃の長さを左手の指又はスライドバーで調節しながら右手は丸い穴の開いたピックでこれをつま弾くという形態のようです。
それに対して、今でいう琴つまり筝の場合には、より大型になり、かつ、琴柱(ことじ)があって、かつ、
絃の数も多いということです。善導寺の石碑に書かれているとおり、七絃琴というのが結局今で言う琴つまり筝
になったということでしょうか。
この筝は、その後、諸田賢順が佐賀の川副町にある同じ浄土宗の元々大寺・正定寺に移り、更に上記のとおり
龍造寺隆信の弟筋にあたる多久氏の招きを受けて、現在の多久市に移ったために、筝曲の伝統は多久に移りました。多久市の西渓公園の西にある郷土資料館には琴が展示されており、それが後陽成天皇からいただいた「鳳凰」と伝えられていたかと思いますが、久しく行かないので、ちょっと自信がありません。このあたりは、実地にお調べ下さい。
ところで、一つの問題は、諸田賢順が何故に筝を大成したかということです。上記のとおり、明人の鄭家定か
ら学んだのが一つということですが、そこで、明人が琴を奏するというのは、またどういうことかを考えてみま
す。
明の文化とは、儒教文化です。
そして儒教と琴とは極めてつながりが深いわけです。即ち、いわゆる和楽器と称されるものは、中国、日本に
おいて、①金属打楽器、②石製打楽器、③糸製弦楽器、④竹製楽器、⑤匏(ひさごで作った笛。笙の属に数本の簧笛を入れた管楽器、竹製気鳴管楽器のこと)、⑥土製楽器、⑦革製膜鳴打楽器、⑧木製打楽器などのように、材質によって八種に分類されます。これを八音と言います。そしてこれら八種類に分けるというのは、いわゆる男性と女性との性的なことの順序を象徴しているとも言われます。
そんなことが何故儒教と関わるのかと言いますと、それによって子孫を残す。今の時代からは奇妙に見えるかもしれませんが、儒教の「孝」の思想とはそうしたものを非常に大事にするということであり、音楽と儒教との基本的な考え方が極めて近く、正に本質的につながっているということかと思います。明国の衰退とともに、その文化が戦国末期から日本に移り、善導寺の琴・箏として大成された。それが、儒教の本場佐賀の多久に移ったというわけで、山本常朝の師石田一鼎が、三誓願の一つに「先祖の名字を断絶すべからず」を入れていることにつながります。これは、女性の地位が高い「女人養子」を認める中世武士の生き方とは、ちょっと違います。
ただ、いわゆる「楽」に関する儒教の古い文献は現在失われているので、本当に細かいところまではよく分かりません。
しかし、いずれにしても、ここでもやはり江戸時代初期(戦国時代末?)の明文化の移入と、葉隠の山本常朝
があこがれる鍋島清久・直茂らの禅仏教的武士の生き方との違いを感じるのです。
