日本の庭園は日本書紀などにみられるとおり、中国の道教、神仙思想などとの関係から始ま
り、寝殿造り、中世の禅の庭、茶の路地などを経て、江戸時代の回遊式の庭園(水戸黄門の後楽
園はその典型である中国式庭園)に至りました。いずれにせよ中国的観念は極めて大きな影響を
与えています。これは日本文化全てにいえることではありますが。
いずれにせよ、この流れを見るのには、論理的思考が欠かせません。即ち、昭和の小堀遠州・
中根金作先生は、1960年代はじめ、「日本の庭」という本の中で、ある米国の33歳になる
青年がこんなことを言ったと紹介しています。
「最近、美しい写真を主として解説を少なくした豪華版の美術本が盛んに出版される傾向にある
が、アメリカの知識人や研究者はもはやあのような『絵本』は希望していない。我々は写真は小
さくても、精神的な内容のある専門的な本をほしい」と。
しかして、そんな中で、初代佐賀藩主鍋島勝茂は1600年代初め、江戸屋敷で老中を迎えるた
めに中国きん山寺を模した庭を造ったところ、息子忠直から「愛らしきもの」との評を受け、た
ちまちこれを壊してしまったということがありました。次の光茂は勝茂の代からの向陽軒を拡充
します。この段階では、鍋島家にとって最も大切な彦山権現が祀られていました。しかし、次の
綱茂(1700年代初め。葉隠の口述直前の殿様)になりますとかんい荘という中国趣味の庭園
が成立し、聖堂を置きます。
つまり、庭などつくるのは愛らしいとされる無骨な勝茂、忠直世代。和歌に親しみ公家の娘を
妻としながらも鍋島家の祖先を大切にした光茂。文治儒教の綱茂という具合に時代の風をしっか
り受け止めた姿が見られるのです(いずれも葉隠に載っている話です)。もとより、常朝は忠直
の言をよしとするのでしょう。
確かに、戦国時代においては、秀吉の作った城にみられる山里丸が、後に庭園に発展したとい
われるとおり、庭園にも戦のにおいがありました。しかし、向陽軒やかんい荘にはそうした戦闘
集団のにおいは感ぜられません(特に後者は)。
私達が庭園を見るについても、その辺りを葉隠の各藩主の対応を、時代を追って踏まえて見る
と、仏教的な武士道から日本式儒教型武士道への変遷がわかりやすく見てとれるのではないかと
思います。
庭園からみる武士道
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