このホームページの「事務室だより」は動作の都合上1年程度で古いものからカットしていま
す。昔のものを読みたいとのお声がありますので、めぼしいもの?を以下に貼り付けます。
2002年の「事務室便り」
★7月26日
このところの朝日新聞に死刑の存廃をめぐって議論が交わされていたので読んでみましたが、
大切な視点が抜けているように感じました。それは、よくいわれる「国家による殺人」というか
国による国民の生命剥奪には、死刑以外のもう一つ、つまり二つの局面があることです。
一つ、つまり死刑じゃない方は、直接国民を守るための国家による殺人。例えば急迫不正の侵
害があって、その被害者を守るために加害者の命を奪う場合。これについては例え地球より思い
生命でも奪わざるを得ない場合があると思います(国民を守るべき国家の本質から)。ただし、
それは官僚の恣意ではいけないのであって、そのために置かれているのが公安委員会等の民主的
機関でしょう。残念ながら当の委員自身にそのことの自覚がなかったのが過去の幾多の例でし
た。
一方、刑罰としての死刑は国民に対する急迫不正の侵害が去ってからのもの。この段階では死
刑の威迫力とでもいうべきものが真に犯罪防止に役立つのか、あるいは国家による応報(正に殺
人)が許されるのか、といったよく論議される話になるでしょう。前者を肯定するなら中国やア
メリカのように死刑の公開が要求されなければ徹底しませんし、後者については国家とはそもそ
も何かという国家の存立の意義が問われるべきでしょう。
いずれにしてもポイントは「国家とは何か」です。また、大きな前者の問題としての行政警察
的視点が国家の殺人にはあることが忘れられてはいけないと思いますし、大きな後者の問題とし
ての司法的視点は、大きな前者が存在することを意識して論じられるべきだと思います。
大きな前者における「生命を奪う行為」を否定することは国家そのものを否定することになる
ともいえます。しかし、それを肯定し、かつ後者も肯定すれば逆に国家の「意義」を否定するこ
とにもなりかねません。
こうして、司法を前提とした死刑だけではない行政処分としての国家による生命剥奪行為(そ
れには当然、戦争を含みます)の視点を欠いた死刑存廃論は、存置にしろ廃止にしろ不正確で情
緒的といわざるを得ません。分かりにくい方は図を書いて。
★7月23日
先日、東京の国立劇場に行く機会があり、久し振りに歌舞伎を見ました。舞台がはねて表へ出
ると、外はとっぷり。お茶でもといっても目の前は大内山、つまり皇居の森で、行き交う車の喧
噪のみ。折角のうきうき気分も台無しです。
一体、こういう食べ物屋一軒ないところに劇場を作った人のセンスが疑われます。歌舞伎とい
うものは四角四面になって見るものじゃない。外へ出たらその余韻を楽しむのが芝居のおもしろ
さのはず(世阿弥の花伝書をみてもそう思います)。歌舞伎座や大阪の道頓堀のように廻りが騒
がしいのがむしろ本物です。
およそ役所が「国立」とかいってこうしたものを作るとしょせんこうなってしまうのが残念で
す。家に例えればすべてを「座敷」にしなけりゃ気が済まない性癖がある。これ正に、寄らば切
るぞ、みたいで水戸学的発想といってよいものです。
そもそも、歌舞伎や落語がお上の援助を受けるなどというのは歴史的にみれば自己矛盾であっ
て、「国立」をわざわざ作るなんていうのは西洋の物まねとしか思えません。
何とか気の利いた国にして「国立」が違和感ないものにするのがよいのかなとも思いますが
(韓国の映像関係の役所とかは国ぐるみで問題作の映画をつくっているらしい。国がそこまでサ
バケルとよいことになるのかとも思います)。
★7月10日
6月末の株主総会から一定の時間がたち、多くの企業は新規事業の立ち上げに向けて走り出し
ています。
会社は古くコロンブスらの航海への投資から出発したといわれますが、最近の商法の改正作業
などを見ていると、正にそうした航海に当たってのアカウンタビリティつまり、計数に対する投
資家への責任をどう透明にして、次のステップにつなげていくかという健全さを見ることができ
ます。その意味で、不祥事はあっても、国家以上に、やはり民間の方がシビアだし、まともだな
と思わざるを得ません。
これは、会社という「国」は新しいし、何といっても鍋島直茂の言う「実利」を追求しなけれ
ばいけませんから、「自分で作ろう」という基本的発想があるからではないかと思います。
それに対して、国は古すぎるために色々な「思い」が加わり過ぎる。
昔、「古代物語」などという神話の本を書いていた中村孝也さんという歴史の先生は、「山高
きがゆえにとうとからず。木あるをもってとうとしとす」と強調しておられましたが、その系譜
を引く人士がやたら日本の国は古いんだ、などということのみを強調しているのをみると、これ
じゃ先生もがっかりだなと思います。
話がずれましたが、憲法学者は商法と、その実際の運用をもっと勉強すべしといいたくなりま
すね。
★7月7日
今日の朝刊に死刑の存廃の議論が書いてあったので一言。
この議論をするにはやはり現実を見なければだめ。最低限死刑場を見る。例えば韓国では日本
時代に作られた西大門刑務所のその場所を、小学生が見学しています。
また、先日行った中国では死刑囚のいわゆる市中引き回しが行われている。
何と野蛮な、などと考えるのは物事を深く考えることを拒否症候群でダメです。それはつま
り、個の自覚あるいは本当の強さに欠けるということでしょう。
韓国の司法の強さは日本の司法改革どころじゃなさそうです。
もっとも中国の「引き回し」には、いわば伝統があるのであって、韓国の場合とはちょっと違
います。日本でも、この博物館にも書いた吉宗の公事方御定書は、一般に公布されていないいわ
ば通達だったので引き回しが行われ、それによって庶民は刑の軽重を知った(こんなのはさわや
かな制度とはいえませんよ)。これは中国法の特徴であり、専制主義の名残というわけ。
だから、吉宗は中国かぶれで、本当の名君かは?とこの博物館にも上記の本にも書いてあるわ
けです。
ちなみに、検事は死刑に立ち会うことになっていたと思います。
★7月1日
パソコンの調子がおかしくて秋葉原に行った帰り、湯島の聖堂を訪れました。いつも思うので
すが、ここ何年かの聖堂の姿は本来の儒教とは相当隔たっている気がします。昔は賽銭箱、絵馬
などという神社みたいなものはなかったのに今はしっかりあります。四月の祭りには正に神主さ
んが出てくる。おかしな姿です。中国北京の孔子廟も満州族のやり方で、これまた変わってはい
ますが。
それに比べると葉隠の故郷佐賀の多久では毎年四月釈さいの儀が明時代の姿で行われており、
ここでも日本は、ある意味で立派な?文化財国家です。
儒教というものが難しい局面にあり、なかなか大変、とは思いますが、こんなときこそ儒教の
多様性、例えば、宋学に凝り固まらない儒教を発掘するなどして、広く関心を呼ぶようにしては
と思うのですが。
★6月30日
ワールドカップも今日が最終日とか。上層部の問題は指摘されていますが、真剣にプレーする
選手の姿はある意味で赤裸々にその国、いや民族の行動パターンを示すもので、大いに参考にな
りました。もちろん、日本人に反省を迫る点もあってよかったと思います。
ところでそんな中、朝鮮半島の南北軍事境界線では衝突事件が。
そして、あれだけサッカーに燃えていた韓国で、当然といえば当然ですがこの記事がトルコ戦
を押しのけて一面トップに巨大に取り上げられるところに健全な姿を見る思いがします。
★6月9日
先日の東チモールの独立式典もよかったですが、このたびのイギリス・エリザベス女王の戴冠
50周年も色々考えさせられました。
チャールズ皇太子の挨拶で、女王は「法を守ってきた」というのがありましたね。正に「法の
支配」の面目躍如。もちろん、この法とは、六法全書にのっている法律じゃありませんよ。より
高次の法、つまり法律の上にある規範です。一君万民とはこれだな、と思わざるを得ませんでし
た。法の前には本当は国王を含めて全て平等なんですものね。これに比べると戦前の日本は残念
ながら違う。
では日本にそのような統治形態がなかったかというと、とんでもない。一味同心で、正に神の
前で殿様も一緒に盟約した時代があったんだ!と言いたいのがこの博物館というわけ。
よく読んでいただければわかりますよね。
今年の初めサイパンに行って、たまたま北マリアナ連邦のガバナーの就任式に参加したんです
が、これも同様の感想を持ちました。
なんとか日本人の頭を、復古主義じゃない昔に帰したい。
★5月27日
昨日日曜日も仕事で都心に出ました。赤坂プリンスの旧館近くのプリンス通りに、どうも昔の
江戸城の土塁の名残ではないかと思われる構造物あり。前から気になっているんですが、どなた
か研究者はいませんかね。
以前、葉隠の佐賀城でも図書館そばの土塁を破壊してしまったことがありました。ただの土く
れということなかれ。そういう中に思想が込められているんですものね。
私の大好きな下村湖人さんの「青年の思索のために」には「草木の種は、その花や果実のよう
に甘美なものではない。それはたいてい土臭くてみすぼらしい。しかし、土臭くてみすぼらしい
種を愛し得るものでなくては真に文化の育成者となることはできない」とあるとおりです。
城も、中世は土塁主体。江戸では石垣と天守閣。しかし、実戦の危険が迫った幕末は、五稜郭
には天守閣なんてありませんからね。
土塁こそが、葉隠の好きな「実」の象徴なんですよね。
★5月18日
瀋陽の話しがまだ尾を引いていますので、先日「武道通信」さんに載せた記事を転載します。
瀋陽といえば先日行ってきたところです。この間の日曜日に、テレビで誰かが、「あそこは田
舎」と言っていましたが、とんでもない。大都会ですよね。昭和初期の奉天(現瀋陽)総領事は
吉田茂ですし。
私は今回の問題については、2つに分けて考えられるべきと思っています。
第1段は、国家の存立あるいは主権の問題であり、第2段が人権とか「かわいそう」の問題で
す。そして、第1段がまずは絶対に大切なことと思っています。
まず、第1段は、あの領事館の敷地は日本という国家のブランチであり、そこにおいては他国
が優越的地位から一定の権限を行使することはできません(所有権の問題ではなく)。これは勿
論当り前といえば当り前ですが、その淵源は、国家というものの本質に根ざしており、ウィーン
条約以前の話しです。「主権」即ち、国家の最高独立性の意味を十分考えるべきです。
ですから、例の警官らがその職務を行使しようと立ち入ったならば、館員は断抗議すべきで
す。なにも取っ組み合いをしろなどとは言いません。
そのことがないのが今回の最大の問題。それは国家というものを背負い、国家という行政主体
を形作る一員としての公務員になったからには、最低限の責任だからです。
この「最低限」という意識に欠けるのか、テレビに出てくる「識者」がしきりに人権擁護のよ
うなことを言うのにはあきれてしまいました。
そもそも、入ろうとした彼らは日本国民ではないようですから、伝統的見解によれば日本国に
「助けろ」と請求する権利はありません。でも、日本の館員がしゃきっとしていれば、中国の主
権が及ばない結果、「反射的利益」は受けるのです。これは冷たい話しではなく、国家の基本か
ら説き起こせばそうなるはずです。
ここのけじめが大事です。もちろん、これは「国家主義」を振りまわしているのでもなく、逆
に、国家という目に見えない存在を作ったからには、本件のような場合、その最低限の意義・作
用についてきちんと貫徹されたかを検証することが必要と思うのに、それがなされないで議論さ
れていることに、日本人の法的観念の弱さをみるからです。
明治時代がよいとはいいませんが、当時の法律の本は、法実証主義といって、しゃきっとして
いました。それが、最近は自由法学などと称する悪くいえば「ご都合主義」。
それが、いかに国家の弛緩を招いていることか。
次に第2段は、彼らにも実は助けてもらう権利があるんじゃないか、という話しです。これ
は、法の支配や宇宙船地球号を考えるとそうともいえますし、少なくとも日本国内では一定の権
利があることは間違いないというべきでしょう。
でも、今回のことでは「最低限」の第1段を問題にすることによって真の問題点が明かになる
し、それで彼らも救われたはずと思っています。
これは決して難しい議論をしているんじゃなくて、「日本は主権ということがわかっているの
か」と開口一番しゃべっている外国のおばさんがテレビに出たことからも世界の常識です。
その常識でなく、「可愛そう」とかいう弛緩した発想に赴かせるものが日本国民の中にある。
それが最大の問題と思っています。
★5月1日
仕事がらみで中国の沿海部、東北の奥地に行ってきました。
沿海部の発展ぶりはいうまでもないことですが、奥地においても、都市住民の購買力は強く、
品質への要求も驚くばかりです。4億の人口を占める中国・都市住民はこれからの日本にとって
極めて重要な顧客です。
一方、その余の農民層も、その頑張りには敬服します。いわゆる郷鎮企業でミシンを踏む従業
員の真剣な眼差しは、量と品質という二律背反との戦いの眼です。
ところで、そんな奥地にも企業戦士と呼ばれる日本の「武士」がわずかの手勢で競争と戦って
います(数百万の人口の町に、日本人は10人とか)。そんな戦士をまさか無駄死にはさせない
でしょうね、と言いたいところですが、日本政府中央の認識は?。戦前の現地でのトラブルの原
因が、実は中央の政策の稚拙さに由来していたことをよく勉強すべし、です。
1年前の「事務室便り」
事務室便り
