葉隠の諸相 ―西学と武士道―
嘉 村 孝
東京佐賀県人会は、本年五月一九日「東京に佐賀を探す旅」として目黒駅前の久米美術館を訪問し、久米邦武、久米桂一郎という佐賀の生んだ大学者及び大画家ゆかりの品々を拝見しました。美術館の特別なお計らいにより、当日は久米桂一郎・黒田清輝の特別展の都合でいつも公開されている久米邦武先生の『米欧回覧実記』にかかる資料については本来展示がなかったのですが特に公開していただき、このたびのヘンリー王子とメーガンさんとの結婚式が行われたウインザー城の報告部分など、梶田学芸員様の解説を交え感動的なひとときを過ごすことができました。
久米邦武先生は、江戸時代の天保一〇年(一八三九)、現在の佐賀市八幡小路に生れ、大隈重信と共に弘道館で学び、一歳年下として、大隈家とは後年に至るまで家族ぐるみのおつきあいであったとのことです。佐賀での勉強を経たのち、江戸に上り、昌平坂学問所においてこれまた佐賀の学者である古賀精里の孫・古賀謹一郎(後洋学所頭取となる)らの指導を受けて、再び佐賀に戻り弘道館の教諭になりました。そして、岩倉具視の子ども三人が佐賀に遊学した縁と思われますが、明治四年からの岩倉を団長とする米欧回覧の使節団書記官としてアメリカ・ヨーロッパを二年間近くにわたって視察してきました。
そして帰国後、五年間かけてでき上がったのが有名な『米欧回覧実記』です。岩波文庫で五冊もある膨大なものですが、その内容は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルキー・ドイツ・イタリア・ロシアなどなどヨーロッパのほとんどを網羅した「旅行記」というにとどまらず、各国の地理・気候・工業・農業・商業・宗教等々に渡るすばらしい報告書となっております。そして各国への感想も、すべてが礼賛というわけではなく、その中身を厳しくひとつひとつチェックしており、付属の銅版画と相まって、今でも充分に通用するどころか、汲めども尽きぬ味のある本になっています。
当日は、この報告を完成させるにつき、五回ともいわれる書き直しの跡を見せて頂き、いかに心血を注いで書かれたのかということに感動を覚えました。そして私は、それだけではなくて、どうしてこのような、いわば博物学的な内容を久米先生が自ら体得し、かつ、それを前提に欧米を見ていたのか、その下地はどんなことなのかということに大いに興味を覚えました。もちろん鍋島直正の近習であったことや父邦郷の影響は言うまでもありませんが。
そこで考えてみるに、一体、佐賀にしろ、昌平坂学問所にしろ、いかに儒教主義の学校といっても、単なる訓古注釈や、いわゆる道学先生的な頭の固いことをやっていたわけではないわけです。それは、この米欧回覧のはるか昔、例えば佐賀の隣の福岡にいた、葉隠にある背振山境界論争にもかかわった貝原益軒即ち折衷主義の大学者が、極めて柔軟で、観念的な大義名分論に陥るわけではないどころか、『大和本草』など正に博物学的な書を物していることからもうかがえます。そして、上記古賀謹一郎は、儒学者ではあっても洋学に広く目を開いた人でした。
本来の儒教そのものが、特に大陸においては、一六〇〇年代のはじめ、イタリアの宣教師マテオリッチらがキリスト教を中国に布教しようとして北京に到達。明朝はこれを禁止したため、最初は仏教との習合を図っていましたが、途中からは、むしろ儒教との習合となり、「天主実義」に見られるようにキリスト教の神・ゴッドを「上帝」とみるというようなことが行われてきました。そして、キリスト教の布教にあわせて、むしろ、中国に「科学」を入れたわけで、代表的なものとしては、ユークリッド幾何学の最高のレベルを伝えた『幾何原本』があったり、世界地図としての『坤輿万国全図』があったりしたわけです。西欧文明つまり西学の東への伝播が彼らによってなされ、リッチの弟子で遂にはキリスト教徒になったのが『農政全書』やアダム・シャールとの協力により『崇禎暦書』を著した徐光啓です。その影響は、日本の農書や天文学などにも顕著です。私は、かつての上海郊外にあたる徐光啓の故地「徐家匯」を歩き回ったことがありますが、今更ながら江戸時代における西洋、中国そして日本の関連性に感動を覚えました。
リッチには中国・元の時代の戯曲・元曲の翻訳がありますが、それが洋の東西に行き、東では歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」となって、新渡戸稲造さんの「武士道」にも引かれ、西ではボルテールによる「支那孤児」としてハッピーエンドの物語となる。平田篤胤の国学そして神道が、キリスト教と極めて似ているということも既に村岡典嗣先生によって説かれているところです。いずれにしても、このような文化の東西交流、特に西から東への伝播は、久米先生のような方の頭には、しっかりインプットされていたものと思います。現に博物誌ともいうべき、「毛詩品物図考」が昌平坂学問所において、教材としてとりあげられていたことも、古賀精里・尾藤二洲と並ぶ寛政の三博士の1人柴野栗山によって書かれています。こうした意味からも『米欧回覧実記』は、日本の歴史について、改めて別の角度からの貴重な示唆を与えてくれる本ではないかと思うところです。
久米先生の業績は、その大隈重信との交流からも極めて大きなものがあり、佐賀の偉人は、「七」賢人どころではないことを思うべきでしょう。
