葉隠の諸相~会津出身のシュガーキングと武士の道~ 嘉 村 孝
今年も、一〇月二三日、会津若松市において、戊辰戦争において会津を攻めた薩長土肥、大垣など、諸藩の戦死者を、市当局や地元の方々が、例年のとおり神式、仏式混合型で、しかも詩吟の吟詠までして、慰霊して下さいました。佐賀を含めた各県からも代表が参列。大垣市からは十数名の参加がありました。いつも書くとおり「敵方」が慰霊して下さるわけで、誠に頭が下がります。
そんな会津出身の松江春次さんのことを取り上げてみたいと思います。
その前に、松江春次さんよりも、むしろそのお兄さんである豊寿さんのほうが近頃は有名になっているかもしれません。豊寿さんは陸軍士官学校を出て軍人となり、第一次世界大戦における青島攻略戦により降服したドイツ将兵を収容した徳島俘虜収容所長を命ぜられました。そして、ここにおいて誠に人道的な捕虜の扱いをなし、ベートーベンの第九交響曲を合唱付きで演奏し披露するなどといったことまでしたことから、正に西洋の騎士道精神に通ずるものがあるとして称賛された人です。のち、会津若松市長にもなりました。
一方、弟の春次さんは明治九年に生まれ、蔵前高等工業学校を卒業後、台湾に渡り、直ちに大日本製糖株式会社に就職。大阪工場を経、アメリカに留学して各製糖工場を見学するなどした後、留学中に取得した角砂糖の製造を日本で始め、雨の日には溶けるので不評であったそれを苦心して製法を改良し、立派な日本最初の角砂糖製造者となり、更に、明治四三年、会社に絡まる日糖事件という疑獄事件が起きたことを機に会社を辞めて台湾に渡り、斗六製糖の創立に参画。斗六製糖が吸収された東洋製糖の常務取締役となって辣腕を振るいました。
ちょうどその頃、第一次世界大戦が勃発するとともに甜菜糖の不足から砂糖の価格が暴騰。大正九年一二月、会社を退職した春次さんは、第一次大戦で事実上日本のものになったといえる南洋にサトウキビ農場を開くことを夢見、南洋興発を興しました(事実上つぶれていたものを承継)。
しかし、そう簡単にサトウキビが無事に育つわけではなく、病気や害虫・筬象虫等のため散々な苦労をし、大正一四年、漸く砂糖の歩留まりを上げて軌道に乗せ、昭和の始めには押しも押されもせぬ「南興コンツェルン」として、遂には「海の満鉄」と呼ばれるまでの大会社に仕立て上げました。サイパン、パラオなどの南洋群島だけでなく、ジャワ、セレベスにまで飛行艇を使ってのネットワークを持ち、アルコール工場など数万人規模の巨大企業です。この松江春次さんやお兄さん豊寿さんの考え方の基礎に、彼ら自身が戊辰戦争における悲劇を生んだ会津の出身であり、敗者としての会津への深い思いがあったことも忘れてはならないことではないかと思います。
当時の砂糖の値段は勿論半端なものではなく、これを軌道に乗せた松江さんは、莫大な富を得ましたが、その得たお金を自分の出身地である会津に還元し、会津工業に寄付をしました。もちろん、先の会社が倒産し、南洋興発を松江さんが引き受けるまで、いわば飢餓状態にあった島の人々も大喜びでした。そのようなわけで、南洋の地元では、是非とも彼を顕彰しようというわけで、生前、サイパン島にあるシュガーキングパークに立派な銅像が建ち、一九四五年の日本の敗戦後も、これを米軍が倒そうとしたのに対し、地元の人が断固反対してこれを倒しませんでした。私自身も地元の博物館で出会った人にそういうことを力説された覚えがあります。
武士道と砂糖というと、松江さんよりも新渡戸稲造さんが有名かもしれません。しかし、松江さんの場合、新渡戸先生よりも、より実践的で、より現場での苦労にも直面し、会社倒産の寸前まで行ったわけで、その一生はむしろ新渡戸さん以上に面白いものと言うべきではないかと思っています。
更に、実は会津戦争において会津側で戦った江上や秋月といった一族は、その祖先が佐賀人である、との話しがあります。
藩祖保科正之のころ、龍造寺隆信のひ孫に当る伯庵は、鍋島勝茂と佐賀藩主の座を争って負け、正之にお預けの身となりました。
その時ついていった家来の子供が江上らであるというわけです。江上といえば、佐賀では、神埼の江上氏が少弐氏を最後まで守った一族として知られます。漢の劉邦の末裔を称していることも以前記しました。
そんなことまで考えると、会津の戦争はもとより、その後の博愛的な行為には、更に深いものを覚える次第です。
