葉隠の諸相「亀趺碑」 嘉村孝
先日、佐賀新聞を拝見していたら、「亀趺碑」のことが掲載されていました。
亀趺というのは、お墓やお寺、学校などの前に建てられる石碑で、龍の六番目の息子といわれる贔屓を台座として、その上に石の塔をたて、更にその上に、チ首というヘビの彫刻を乗せたものです。
龍には九人の子供がいることになっているそうで、東照宮などに行きますと、贔屓ではない他の子供が灯篭の上に乗っていたりします。
唐の法律(唐令)などによりますと、「もろもろの碑碣(石碑)を建てるには、その文章は実録でなければならず、むやみに飾り立ててはいけない。五品以上には、碑を立ててチ首・亀趺を許す。趺(台石)上は、高さが九尺を超えてはならぬ。七品以上は碣を立てて圭首・方趺を許す。趺上は、高さが四尺を超えてはならぬ。身分はなくてもまことを述べ、孝義が世間に知れ渡った者は、官位についていなくても碣を立ててよい。(墓前に並べる)石人・石獣の類は、三品以上は六、五品以上は四を許す。死後に贈られた官位は、正式の官位の制に同じとみなしてよい。」と、身分の違いによって高さなどが厳格に決められています。
ところでこの亀趺は、葉隠の佐賀には、新聞の記事によりますと、江戸時代のものはどうも存在しないらしいのです。少なくとも鍋島家菩提寺の高伝寺には存在しません。県内に数基あるのは、いずれも明治以降に建てられたもので、有名なのは万部島の佐賀の乱の戦死者を弔ったもののそれでしょうか。
ところが、水戸、会津、長州などに行きますと、これがたくさんあります。水戸黄門ら藩主の墓がある瑞竜山、会津藩の藩祖保科正之を神として祭った土津神社や歴代藩主の松平家墓所、更に、萩の東光寺などです。
即ち、私のいう新しい近世武士道をうちたてたところには、江戸初期、中国伝来の文化として、この石碑がやってきたというわけです。瑞竜山もそうですが、会津の松平家墓所など十数代にわたり、驚くばかりの大きさの亀趺があります。二千人もの人や牛馬で引っぱり上げて、刻み、直立させたというのです。しかもそのずっと奥には、小山のような円墳があり、その上には鎮石と呼ばれる石が載っています。これは、韓国のヨ州にもそっくりなものがあります。
一方の葉隠の殿様、例えば鍋島直茂は、そのような墓は作らせませんでした。この事からだけでも、葉隠の武士道というものが、いわば当時はやりのものではなく、佐賀の地方的、中世的なものであることが歴然です。
私にとっては、むしろ、こんなものを作らなかったことにこそ、葉隠武士道の誇るべき点があるように思われるわけです。
