佐賀の国際性と武人の道 

葉隠の諸相

佐賀の国際性と武人の道                            嘉村 孝        

悠仁親王殿下のお印は高野槙と定まりました。

この木は、日本の高野山のあたりにのみ生育する木だというのですが、韓国の公州にある百済武寧王陵の柩が高野槙で作られていたことでも有名です。佐賀県、加唐島はこの話しに関わり深く、世界的な広がりを思わせます。

 ところで、佐賀県というところ、このところつくづく国際的なところだなと思われてなりません。

 葉隠が成立した金立山の麓、常朝先生垂訓碑のそばに、移設された丸山古墳があることはよく知られていますが、その一角にはたくさんのドルメン、即ち支石墓と呼ばれるものがあります。これは西はアイルランド、南はインドにも同じ形のものが見られる露出した石棺ですが、日本では北部九州に集中しており、佐賀県が大陸と極めて近いことを思わせます。もちろん、これがヨーロッパまでつながるのかについては説が分かれており、今のところ、世界で一番集中している韓国との関係が深いという説が有力のようですが、いずれにしても、佐賀県の古くからの国際性を示す有力な一つの徴憑でしょう。

 そして、私がもう一つ考えるのは、城、それも律令時代のものです。

 律令時代といえば、お隣の福岡県にある大宰府が九州における中心ですが、六六三年、日本が唐と新羅との連合軍に白村江で敗れると、大和朝廷は、大宰府の博多側に水城を作り、背後の四王寺山に大野城を築きました。

その上に登ってみますと、平坦な頂上部は、グルッと人工的な土手で囲まれており、その上や中の平場には、あちこちに礎石がみえます。この土手は、板築という中国や韓国にみられる、土を何層にもつき固めたもの。万里の長城や都市の城塞と基本的には変りません。それがぐるっと山の上を廻っているのです。しかも、それは山を下り、水城へと通じ、更に城南区の中を小水城、そして西に向かい、筑紫山地に上って、佐賀県の基肄城に至ります。そして、最後尾は再び大野城へと登る。つまりは大宰府を一巡りで囲んでいるというわけ。もちろん基肄城も、大野城と同じ構造です。

 私は素人ですから、そういう話しを読んだり聞いたりして、現地に行き、飛行機から見たというだけでして、確証的なことは言えませんが、もし、以上の事実が本当ということになると、これは、城という観念について、後代とは全く異なる、大陸的な発想をもっていた、ということになりそうです。百済人らが作ったから当然といえば当然ですが、大和朝廷自体が本質的に持った国際的雄大さでしょう。中国や韓国の都城と同じです。

 しかも、大野城や基肄城のあちこちには、百間石垣などと呼ばれる一三〇〇年前の石垣が所々に、今も当時そのままに残っています。

 大和朝廷は、実はそれだけでなく、長門、屋島などにも同様の城を造り、佐賀県の早稲隈山、帯隈山、そして筑後の高良山と、いわゆる神護石として、山城はつながっています。

 神護石が朝鮮式山城の跡らしいと知られたのは、まだここ数十年来のことで、研究も途上なのですが、少なくとも私達は佐賀の歴史を考えるについても、周辺の県や大陸の情勢を無視してこれを考えることなどできないと思います。

 例えば、律令時代の武人の倫理を考えるについては、聖徳太子の十七条の憲法にある「承詔必謹」などという数十年前に問題になった一語が大切ですが、その意味も、こうした雄大な国家像を前提にしなければ考えられません。広大な国土を治める官僚としての道なればこそ、詔の厳正な執行が、基本的倫理として要求され、その点では葉隠とは相当に異なるというわけです。 

また、もちろん「観光」の面からみても、以上のような有機性を考える方がよほど面白いわけで、右のとおり葉隠についても、もっともっと広く目を開いた方が絶対に面白いはずです。

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