三浦一族の長崎喧嘩

葉隠の諸相   三浦一族の長崎喧嘩         嘉村 孝

今年の若楠会郷土訪問は、佐賀県の西南に位置する太良町を訪れ、みかん栽培、乳業、たいらぎ漁など数々の見学をさせていただきました。

そして、その翌日は、太良町竹崎の竹崎観世音寺と長崎見学になりましたが、一体、佐賀県への郷土訪問でどうして長崎に?といぶかられた向きもあろうかと存じます。

しかし、考えてみれば明治以前は現在の長崎県の相当部分が佐賀藩の一部でした。例えば江藤新平さんのような典型的佐賀県人も元は長崎の人です。

それで、三日目に伺ったのが彼の出身地・長崎市深堀、即ち旧深堀村でした。ここは鎌倉時代の一二五〇年代、即ち建長年間に、千葉県夷隅郡から三浦一族が下向してきたところで、深堀は本来千葉県大原町の地名です。

この三浦氏はのち深堀氏を称し、鍋島藩の家老になりました。葉隠と深い関係のある人物が深堀純賢(すみまさ)らです。そして、彼ら深堀の一党が一七〇〇年(元禄一三年)に起こしたのがかの有名な「長崎喧嘩」です。この浅野内匠頭の刃傷の一年前に起きた一件は、葉隠に極めて大きな影響を与えていると思われます。

改めて考えてみますと、この事件は武士の町深堀と、公領で町人の支配下にあった長崎との深い因縁に由来するものだったようです。長崎港の入り口を扼する野母半島の一角に本拠を置き、目の前の海を通行する船から一種の関銭のようなものを取っていたこともある深堀の一党は、長崎の町人とはいっても町年寄として大きな権力を持っていた高木一党から見ると何かとうっとうしい存在でした。

ですから、町中で出会った深堀の二名の老侍は、彼らにとってかっこうの喧嘩相手であり、雪の水がはねたはねないといった些細なことから、二人に恥をかかせ、怒った深堀党が応援を頼んで高木屋敷に乱入。主人以下を殺し、二人の老侍も切腹します。

これが長崎喧嘩ですが、この件には後日談があり、例えば一六歳で討ち入った深堀嘉右衛門は、公領における私闘をとがめられ、他の十数名とともに調べを受けて、母や姉に会うこともかなわぬ内に切腹を命じられ、悲痛な遺書を残しています。

また、五島に遠島になった9名の者らは、彼の地で妻帯を許されますが、後、刑を終えて深堀に戻ることになりましたが、他国者である妻子を連れ帰ることができず永遠の別れとなりました。

こうしたことを考えると、赤穂浪士を批判し「武士道とは(直ちに)死ぬこと」で、・・・「長崎喧嘩のようにはならぬなり」などと述べ、一方的に長崎喧嘩を理想としている常朝に対し、相当な批判があるのも当然と思われます。

とまれ、この深堀党は間違いなく「死ぬ事と見つけたり」の一半の意味を形成していることは間違いなく、葉隠の好悪をよく吟味して読むべき部分と思います。

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