採用できない「新渡戸・武士道」

(添付1) 1081389719.1.JPG  

新渡戸さんの「武士道」が、現代日本の使用に耐えないものであることを、この下の掲示板に
ある「武道通信・葉隠入門」から、ごく一部を抜粋してお見せしておきます。
 是非、本文をご参照下さい。

 ちなみに写真は、サイパン島の沖合い、昔は「軍艦島」とも呼ばれた「マニャガハ島」にある
「明治35年製」の、呉で造られた大砲。ここにこれがあることと、新渡戸さん的発想との間には
深い関係があること、わかりますよね。

「まず、新渡戸さんは、「武士道」を書くにあたり、それより10年近く後に公刊された葉隠は
読んでいないと思います(序文は寄せました)。そのこともあって、彼の「武士道」は、葉隠の
仏教的「大慈悲」とは全く異なる「義、勇、仁、礼」などの「日本的」儒教主義そのものです。
そしてその内容の実証性は極めてあやしいのです。例えば菅原道真の話が出てきますが(岩波・
79頁)、それは、道真が太宰府に流されたあと、「寺子屋」で学ぶ小太郎という子供が主君道
真の子秀才の身代わりに殺されて忠を貫いたというお話。正に歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」その
ものなのです。
(以後は、もっぱら「根拠」も示さない「滅私奉公」そのもの)
・・・
そして新渡戸さんは遂には(我々に)「活力を与えるものは精神であり、それなくしては最良の
器具もほとんど益するところがない・・・。(日清戦争で)旅順において、朝鮮及び満州におい
て戦勝したるものは我々の手を導き、我々の心臓に打ちつつある我らが父祖の威霊である」と精
神主義を説きます(同146頁)。
本誌(武道通信)の読者には大空のサムライ・坂井三郎さんの愛読者も多いでしょうからおわか
りと思いますが、例えば戦闘機はいくらベルヌーイの定理に忠実にし、翼面荷重を軽くしたとこ
ろで、馬力の強い発動機がなければ高速の上昇力は出ません。それなのに「精神力」を強調し、
機体の形等に極限までの精力が使われました。それでもうまくいかないと技術陣がたるんでいる
などと見当外れの叱咤をし、米英との圧倒的な物量の差を精神で補おうとして敗れたのがかつて
の日本軍だったのです(例えば元三菱重工設計課長・曽根嘉年氏の「最後の艦戦烈風設計の秘
密」など)。
ですから、新渡戸流の陳腐な精神主義は、明治から昭和二〇年に至る日本の敗戦の、それこそバ
ックボーンそのものといっても過言ではないでしょう。
・・・
これに対して、葉隠武士道やその理想とする中世の武士道はどうでしょうか。
例えば、戦国武将である鍋島藩祖・直茂は、自分が死ぬに際してこんなことを言いました。「自
分の墓は城の北、多布施に小さなものを作るように。鍋島家の最も手ごわい相手は北方の神代
(くましろ)の残党である。だから北から攻め込まれたとき、主君の墓をそこに置いておけば、
墓が馬に蹴られては、と皆頑張るだろうから、そういう趣旨で作ればよい」と(葉隠に関係深い
「元茂公年譜」)。そして、もちろん彼・直茂は、「蹴られては困る」家来思いの優しい主君で
した。
彼は、ある寒い夜、妻陽泰院と炬燵にあたりながら、「この寒い夜に最も難儀をしているのはだ
れだろう」と話し合います。「百姓は炬燵もなくて大変だろう」と。しかし、「とりわけ寒くて
難儀をしているのは牢屋の囚人のはずだ。藁火にあたることもできず凍えているのだろう」とい
うので粥をふるまい、囚人は泪を流して喜んだという話が葉隠に出てきます(聞き書き三)。
こんな主君なら、家来も「殿様の墓を守れ」と頑張りますよね。
つまりはしっかりした「実」があるのであり、政治的シンボルとしての墓(新渡戸さんご推奨の
水戸黄門やその仲間・保科正之の墓は二千人もで造り上げた、どこやらの専制国家のそれと同
じ)ではない、中身のある戦闘用の実用の墓でもあります。・・・」

タイトルとURLをコピーしました