板碑と武士道

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板碑と武士道 引用   2003/7/22 (火) 00:22:14 – 嘉村孝 – No.1058800013  板碑は鎌倉時代の始まりとともに造立されだし、戦国時代の終焉とともに終わった石像物です
(徳島の板碑の最古は1185年、つまり平家滅亡の年の造立)。
 それは、本来五輪塔などと同じく、追善供養や逆修(生前功徳を積んでおくこと)を目的とし
たもので、インド以来のいわゆる塔婆の一種であって、ただの石碑ではありません。五輪塔など
が中世からそうした名称をもっていたのに対し、板碑はその形から昭和になって板碑研究の第一
人者服部清道さんによって付けられた名で、以上の成立に照らし適当ではないとの意見もありま
す(服部さんは29歳で板碑概説を書かれたのですから、本当に昔の人はたいしたもの)。
 この板碑は埼玉県に最も多く2万数千基が、東京に1万数千基が知られ、それらの多くは秩父
系の緑泥片岩を薄く剥いで、頂上を三角にし、二条の線を入れた下部に、阿弥陀(キリーク)三尊
を彫ったものが一番多いのですが、題目や禅語を彫ったものもあります。
 元弘3年(1333年)の板碑もいくつか知られ、その中の、入間市にあるものは、北条高時に殉じ
た丹党の加治家貞を関係者が供養したもので、そこには元弘3年5月22日という北条氏滅亡の日
とともに、臨剣頌、つまり、北条時宗の先生である渡来僧・無学祖元が、中国で攻め込んだ蒙古
の兵に述べた有名な言葉が書いてあります。私は大宮の博物館でそのレプリカを見ただけです
が、この臨剣頌を見て、言い知れぬ感懐を覚えました。
 さて、我が葉隠の肥前では、と見ると、例えば吉野ケ里部落の真ん中の石塔院にはたくさんの
板碑があり、この寺が近くの東妙寺と元はいっしょだったとおり、奈良の西大寺を本山とし、鎌
倉の北条氏と関係深いことから、東国の文化の伝播の一つとして、これら板碑もやってきたので
はないかと考えられます。
 しかし、そこでは関東のような粘板岩は取れませんから、安山岩系です。太宰府で見たそれは
花崗岩でした。
 こうした石造物は、関東からやってきた鎮西御家人の故里に寄せる気持ちを如実に表していま
す。仙台や福島の板碑を見ても感ずることです。
 また、これが私の言う中世武士道の時期と正に重なることは、地方的、土着的と言われる葉隠
の感覚にもつながっていくもののように思います。
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