今回は、ちょっとおもむきを変えて、群馬県の尾島町を取り上げます。尾島町は、鶴の形をした群馬県の、その頭に当たる部分にある比較的小さな町ですが、歴史の宝庫であり、佐賀とも様々な関係があります。
ここは、新田一族発祥の地といわれ、新田義貞もこのあたりから鎌倉を目指しました。後にはその支族であることを標榜した徳川家発祥の地ともされました。
ですから、天海が日光から移した徳川秀忠の造った東照宮が今もあり、徳川家菩提寺・満徳寺の跡があります。満徳寺は、家康の孫千姫が入寺したことにされ、鎌倉の東慶寺とともに縁切寺になりました。明治維新になって大檀那を失うことになり、廃寺となりましたが、現在は、例の一億円の創生資金を活用して、資料館として蘇っています。
しかし、何といっても主要な寺は長楽寺でしょう。この寺は日本の臨済宗を始めた栄西の高弟・栄朝が鎌倉時代に開いた寺といわれます。後鳥羽上皇から「関東最初の禅窟」の勅願を賜りました(後記博多・承天寺のそばの聖福寺は「扶桑最初の禅窟」)。尾島町のすぐ南を流れる利根川の水運が、新田氏はもとより、その帰依する仏教の交流にも寄与してこうしたことが行われたのでしょう。
そして、若き日、栄朝の弟子になったのが後に聖一国師の号(国師号の最初)を賜ることになった円爾弁円でした。彼は、静岡県の藁科郡に生まれ、この尾島町・長楽寺で勉強したあと、中国に渡ります。そして、杭州の霊隠寺などで勉強したあと、余杭・経山の無準師範の弟子となり、帰朝後博多に少弐氏の援助で土地を確保して、承天寺を開きました。無準師範の書は、福岡市立博物館や、東京国立博物館などにあり、師弟の情愛の深さを感じさせます。承天寺もまた、博多祗園山笠発祥の寺として、御笠川を背後にした国際的な貿易と関わり深い寺です。円爾は併せて、太宰府に横岳山崇福寺を、そして、佐賀県の大和町に水上山万寿寺を開くわけです(万寿寺は弟子神子栄尊が開いたとも)。更にその後、京都に上り、九条家の帰依を得て、東福寺を開きました。こうして、群馬・尾島町で学んだ円爾は、北部九州の寺、あるいは天満宮などにも多大な影響を及ぼしています。その聖一派は、禅宗最大の派といわれます。
この長楽寺の大きな特徴は、栄西以来の「顕密禅」の三学を兼修する寺ということでしょう。旧仏教と禅とを併せた広い修業の場として、永い間、関東の道場としての重きをなしました。
そして、そんな長楽寺の三仏堂に、過去、現在、未来を象徴する巨大な三尊仏(釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩)が坐しておられますが、その寄進者は、蓮池藩の殿様鍋島直之でした。
彼は、ちょうど葉隠成立の前ごろ老境にさしかかった年代の殿様ですから、戦国の雰囲気もあわせ持っていたのかもしれません。咎めを被って放逐されることになった家臣を夜中密かに屋敷に招き、名残を惜しんだ話しが葉隠に出てきます(聞き書き五)。つまりは仏教的な大慈悲の人であり、「大慈悲を起こし、人の為になるべきこと」の書、葉隠の武士道の体現者でもあったといえるのではないかと思われます。
