葉隠と宗教ー鍋島清久の信心

葉隠と宗教ー鍋島清久の信心ー 引用   2003/3/22 (土) 12:50:08 – 嘉村孝 – No.1048304740
 葉隠は江戸時代も中期の一七一六年、享保元年ですが、話題はその二百年以上前にまで遡りま
す。当然その時代はいわゆる戦国時代です。ですから葉隠には戦国武士の話もたくさん出てくる
ことになります。
 その冒頭にある「夜陰の閑談」において、山本常朝は「ご家来としては国学心がくべき事な
り」と述べるわけですが、その国学(ここでは鍋島藩の歴史など。本居宣長らの国学のことでは
ありません)の対象は戦国武士としての鍋島侍の生き方ということになるのが理の当然でしょ
う。
 それより時代がやや下ったとしても、一六三七年の天草・島原の乱あたりまでの戦国の余韻さ
めやらぬころまでの先祖をよく勉強しなさい、と言いたいのがこの言葉であると思います。
 そこで、この鍋島家のはじめを築いた鍋島清久のことを考えてみましょう。
 彼は一四六八年(応仁二年)の生まれとのことですが、歴史上に現れるのは一五三〇年(享禄
三年)に現在の三田川町で起きた田手縄手の戦いにおいてです。
 当時、佐賀県を中心とする肥前の地は、名家少弐氏の勢力がいよいよ弱まり、その宿敵大内氏
のために正に累卵の危うきにありました。
 そして、同年、東肥前に侵入した大内義隆と、竜造寺を核とする肥前の少弐方とが、現在の吉
野ヶ里遺跡近辺において一大決戦を行ったわけです。
 そしてこのとき、赤熊武者二・三〇〇人をもって奇襲攻撃をかけ、合戦を肥前方の勝利に導い
たのが鍋島清久でした。清久は、その褒美として本庄の地を賜り、竜造寺との姻戚関係を強化し
ます(九州治乱記など)。ここにおいて、彼は鍋島藩の基礎を作ったといえるでしょう。
 ところで、そんな清久はいったいどんな人物だったのか、その点が気になります。
 清久は藩祖直茂の祖父に当たるわけですが、直茂にも負けないくらい優しく、また、神仏に対
する信心に篤いものがありました。
 ただし、彼の信心の対象は、単純に現代の我々と同様な神、仏ではなかったようであることが
ポイントと思います。
 彼は、産土の神である本庄神社を尊崇し、一方、祭礼の前には夫婦で夜どうし、今も残る堀の
鮒を追って逃がした善根で知られます(聞き書き六)。
 また、兼ねて彦山を尊崇し、毎年年越しに参篭。あるとき大雪に迷い、崖から転がり落ちる事
故に遭いました。ところが、落ちたところで阿弥陀三尊を拾い、彦山の本地仏は阿弥陀三尊であ
ることから、これを嘉瀬の徳善院に彦山の分霊として祀り、葉隠には、その功徳にてお家ご繁盛
と記されています(同)。ですからその後の藩主は彦山や徳善院をとても大切にしました。
 ところで清久の前者の行為は、一種の仏教における放生の行為であり、石清水八幡宮やそれを
受けた鶴ヶ丘八幡宮においてなされた仏教的な、善根を積む行為の一種といってよいでしょう。
 また神道からみれば、彦山に代表される山伏の大自然を大切にする行為につながるものともみ
ることができます。廃仏稀釈以前の本庄神社は、正にそのような神社でもあったのだなと思われ
ます。
 そのことは、清久の信心により肥前における彦山参りの総元締めになった徳善院をみればより
はっきりします。徳善院は、もともと京都仁和寺の荘園と関係深い寺だそうですが、明治の廃仏
稀釈に至るまで、神仏混交の霊場でした。その本家本元の彦山権現も共にそうです。実は伊勢神
宮なども、今とは全く異なった姿であったようです。
 それが、明治以後、彦山は神社に、徳善院は寺になって、両者の関係は断ち切られ、互いにわ
ずかに仏教の、あるいは神道の痕跡を残すに過ぎません。清久の思いは失われ、鍋島光茂が寄進
した徳善院の山門も手を加えることができず遂に解体されてしまいました。
 よく日本人は、正月は神社に、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教、などと揶揄されますが、
それは、各宗教が別々だからおかしくみられるのであって、清久の当時はもちろん、日本では千
年にわたって仏教と神道とが習合し、そのよいところを互いに取り入れていたのです。ですか
ら、現在のような見方はできません。
 佐賀出身の真崎勝次海軍少将は、神仏混交ということのよさ、即ち、差別と平等との調和を説
いておられましたが、正に清久の行動はそうしたものだったといえるでしょう。
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