鎌倉武士の法観念 御成敗式目に帰れ             

鎌倉武士の法観念               

御成敗式目に帰れ     嘉村 孝 

一 「日本の法律」とは

  • ドイツ・アメリカの輸入品

法制史の専門家でもない私が、大それた題でこんな文章をものすことになるとは思わなかったが、ひとつの随筆として読んでいただければ幸いである。

二十数年前のこと、現在東京大学名誉教授の松尾浩也先生(刑事訴訟法)のお話をうかがう機会があった。その折先生は「今こそ『日本の』法律がどういうものであるかを外国にも説明できなければならないのだが、それができない」という趣旨のことを言われていた。

確かに現行日本法、特に基本的なそれは、ドイツやアメリカからの輸入品がほとんどである。少なくともそのように学校で習ってきた。だがしかし、もう少し掘り下げると別の面も見えてくる。

● 隠れていた中国法

私は時々国選弁護を担当し中国人の犯罪に関わることがある。ある法廷通訳人の中国人の方と話した折、「初めて日本の法律を勉強した際、その中に余りにもたくさんの清朝時代の用語があるのにびっくりした」といわれていた。確かに先年改正される前の刑法には中国的な言葉がたくさん含まれていた。

あるいは隠れた中国法も多い。例えば刑法第一九五条の特別公務員暴行凌虐罪がある。捜査などにあたる公務員が職務に関して暴行などを働くと、一般人の場合より重く罰するという規定である。これは旧憲法下の「天皇の官吏」たる公務員にはそうした不祥事があってはならないことから設けられた、正に律令的な規定である。

  • 自白偏重を助長し冤罪の温床

大切なことは、この規定はこうして憲法と関わるだけでなく、刑事訴訟法とも関係していたことである。というのは、戦前の旧刑事訴訟法では、この規定により捜査機関の取り調べに暴力などは用いられない「はずだから」というので、もし被告人の自白調書があれば、補強証拠を要せずして有罪にできるということになっていたからだ。

そのため、この制度はかえって自白偏重を助長して冤罪の温床となり、現行刑事訴訟法では自白だけでは有罪にできないことになった。もとより憲法も変わって、「天皇の官吏」から「国民全体の奉仕者」に変わった。それなのに、改正されなかったこの条文だけが刑法に息づき、現代でも公務員があたかも天皇の官吏を期待される根拠のようになってしまっているのである。

二 道理を通す法

● 徳川吉宗の公事方御定書

いずれにせよそんなわけで、現行日本法には、ドイツ、アメリカ、そして中国もその深いところで影響を与えているが、ドイツ、アメリカはせいぜいここ百年来のことである。

では一体、中国法はいつからこんなに影響を及ぼしているのだろうか。これまた教科書風にいえば、明治初年の新律綱領、改定律令以来である、ということになるのであるが、私はもっと古く、江戸時代の公事方御定書など遅くとも徳川吉宗の政治に遡ると考えている。

御定書は、本誌でも再三述べたとおり和歌山時代から中国法を研究していた徳川吉宗が制定させたもので、犯罪と刑罰とが厳格な対応関係にあり細かい。裁判官が事実を認定すれば裁量の余地なく一定の刑を科すことになる。これは律令と同じで、「絶対的法定刑主義」と呼ばれる。しかもそれは奉行だけが書き写して持っていた一種の通達であり、国民は原則として見ることができなかった。つまり、厳密には法律ではないのである。

  • 日本独自の法「御成敗式目」

では、それ以前の日本の法律はどうなっていたのだろうか。古く遡れば律令なるものが奈良時代以前から行われてきたが、これも中国法を日本風にしたもので、「日本の法」とはいえない。それに対し、日本独自の法を打ち立てたのが鎌倉時代の御成敗式目であり、その影響は分国法を通じて江戸初期の武家諸法度にまで及んだ。

その制定者である執権北条泰時がいかなる趣旨でこの法律を作ったかは、泰時がその弟、北条重時に送った二通の消息(手紙)からうかがうことができる。

「ただ道理のおすところを記され候ものなり。・・・・・かねて御成敗の体を定めて、人の高下を論ぜず、偏頗なく裁定せられ候わんために仔細記録しおかれ候ものなり」と。即ち彼は、自身日ごろ好んだといわれる「道理」の政治を貫徹するための裁判のよりどころとしてこの法を立てた。しかもオープンであり通達ではない。また、決して律令法を無視するわけではないが、「道理」をとおすためには律令法(「法意」といわれる)さえ時に否定している。

  • 民族精神の尊重

たとえば奴婢の子の帰属について、中国法の影響を受けた律令法では、それを天然果実の一つとしてすべて母に帰属するとしているが、式目では男は父へ、女は母へと規定されている。しかもこれは、律令以前にわが国に施行された法に戻るものとされ、つまりは日本的慣習法に帰ることを企図した。正に民族精神の尊重である。しかもそれが道理だというのである。

●欧米に近い自力救済肯定の思想

また、二十年以上ある土地を現実に支配すればその支配者を正当な者と認める知行年紀法は、個人(御家人)の所有権というものを広く認めた嚆矢ともいわれる(右、当知行の後二十ヶ年を過ぐるは、右大将家〔頼朝〕の例にまかせ、理非を論ぜず、改替する能わず。しかるに知行の由を申し、御下分を掠め給わるの輩、彼の状を帯するといえども、叙用するに及ばず)。

すなわち、占有という事実状態を尊重しそれを保護するということは、近代的所有権かどうかは別として、個人の持つ利益状態に国家が保護を加えてこれを権利化したもので、現代に通じるものがあるのである。それだけでなく、その趣旨を考えると現代日本とは異なり、むしろ欧米に近い自力救済肯定の思想をもみることができる(後述する鎌倉末期の裁判機能喪失に対しては、城郭を構えて抵抗した御家人もいたという〔吉澤直人「鎌倉幕府と中世国家」〕。それだけ御家人に、現代にも通ずる「個人=武士」としての自覚があったということであろう)。

●法に上位する「自然法」

また、女性が養子をとることを認めた女人養子なども有名である(「右、法意の如くんば、これを許さずといえども、右大将家〔頼朝〕の御時以来、当世に至るまで、その子なきの女人ら、所領を養子に譲与すること、不易の法あげて数うべからず〔慣習法として存在した〕・・・・・・」など)。

かくして、この「道理」なるものは、数百年にわたって通用してきた制定法である律令法をチェックするという意味で、法の上位に位する一種の「自然法」といってもよいものである。

三 民族主義が原点

● 法律は民族の習慣から生まれる

日本では、七〇一年の大宝律令以来中国式の成文法が行われてきた。遣唐使を廃止して以降、国風文化が盛んにはなったが京都を中心とする律令国家は維持されてきた。それに対して鎌倉幕府の開幕、承久の乱を経て武家政権が確立。そこで裁判の基準を、ということで御成敗式目ができたのだが、大事なことは、これが右のとおり「道理」を基本にしたことと、その権威を右大将頼朝の時以来という「慣習」に求めたことである。それが「自然法」に通じていく。

われわれは、そのことの意味を考えるために、ドイツの歴史主義やイギリスの法の支配について考えてみよう。

まず、一九世紀の代表的歴史学者レオポルド・フォン・ランケは、ナポレオンに蹂躙された国家再建の意図もあって自身の属する「ゲルマン的なもの」を高く評価し、民族主義を唱えた。そして、その影響をうけた法学者サビニーは、法律なるものも言語と同様に民族の慣習的なものから生み出されるとして、歴史法学派の祖となった。その「現代ローマ法体系」は現在の日本法の元にもなっている。つまりは、民族主義は歴史主義につながり慣習法へと導かれるのである。

● 排外主義に陥らなかった泰時

ただし、右のランケやサビニーと泰時とでは大きな違いがある。それは、ランケらは民族優越の排外主義になってしまったり、主張と実態との間に無理が生じてしまっていることである。即ち慣習法によって法を観念しようとしても後進国ドイツのゲルマンの慣習法が全ての事象ををカバーできたわけではなかった。サビニーはそのため、神聖ローマ帝国以来行われてきたローマ法を自国のものとして解釈し、「現代ローマ法体系」を書いたのだった。これは一種の「無理」である(もとよりその精緻な理論は、良し悪しは別にして現代にも深甚な影響を与えているが)。

こうしたドイツの歴史法学派に対して、同じく慣習を重視しながらも泰時に排外主義はない。ナポレオンによる蹂躙への反発から生まれたランケらの発想に対し、泰時は明恵上人らとの交流による平等主義の仏教を背後に置き、殊更な民族優位主義を考えたわけではなかったからだ。「道理」という自然法を基本にし、天皇の法たる律令も「道理」の下に置くという意味で一種の「法の支配」を行うことを主眼にしたからである。彼が慣習を大切にしたのはそれが「道理」にかない、「身の丈」に合っているからであって、偏狭な国粋主義から始めたわけではない。

● 「身の丈」にあった国家

その意味で彼の法は、やはり慣習法を大切にするものの、技術的な実定法の上に自然法を置いてこれをチェックすることに意義があるイギリス法にむしろ近いともいえるだろう。このことを国家像で考えると、イギリスには形式的な「憲法典」はなく、実質的な慣習などによって国家が形作られている。だが、人工の法典よりも慣習や判例(ただし、民主的に作られたもの)で自然に作られた国こそ、「人工国家性」のない。正に「身の丈」にあった国家なのである。そして、そこでは「法(泰時の「道理」)の支配」が行われ国王も法の下にある。

● 鎌倉政権はイギリス型

もう一つ、一九世紀ヨーロッパの行政法学を考えてみると、フランス革命によって生まれたフランス行政法はアルザス・ロレーヌを通じてドイツに渡り専制的なドイツ行政法となったが、「法の支配」を標榜するイギリスではダイシーの「英国に行政法なし」の言葉に代表されるとおり少なくとも大陸法的な行政法は成立しなかった。即ち、大陸と異なり、民事・刑事だけでなく行政に関しても一般の裁判所がこれを裁断したのである。これに対し大陸では行政裁判所という一種の行政機関が裁判をなすことになった。

そうすると、中国という冊封国家が作った律令を朝鮮半島などを経て輸入した京都政権の法(律令法)はフランス法を系受したドイツ法のごときもので、これに対し、独自の慣習法を打ち立てて法の支配を志向した鎌倉政権は、ヨーロッパのイギリスに相当するともいえるだろう。

四 新しい秩序の前兆

● 「日本的なもの」の追及

こうして、日本には独自の法などない、などと卑屈になることはないわけで、確かに漢字文化からは逃げ出せていないが、その点は民族主義を重視してハングル文字を使用している韓国でも、その元は漢字であるようにやむを得ないことなのである。要は、身の丈に合った正に日本的なものを作ったかどうかである。

葉隠を研究?している私の関心地佐賀には、名産品として有田焼がある。江戸時代の初め、それはヨーロッパに大量に輸出されたのだが、鎖国とともにその供給が途絶えると、ヨーロッパでは独自に日本風の焼き物の製作を始めた。なかなかよいものがあるが、中には虎がおかしな怪獣になってしまったものもある。つまり外国の物まねでは珍妙な怪獣的制度が作られるだけだし、特別公務員暴行凌虐罪のように本来の制度趣旨が忘れられ、それだけが一人歩きしたりする現象が現出するのである。こうして我々は、日本の独自のものはないなどと悲観せず、また排外的になることもなく、自信をもって本当の「日本的なもの」を追求すべきなのである。

● 陪審制度は鎌倉時代にあった

そういう観点にたつと、例えば今「司法改革」において話題となっている陪審制度なども「官吏記」という書物によれば、鎌倉時代にそれに相当する制度が存在したとのことである(東京裁判の弁護人をされた滝川政次郎博士の紹介。「裁判史話」)。

われわれは陪審というと英米法の専売特許視し、ドイツ万能の頭からこれに疑問をなげかける。また現に数十年前、日本でも陪審制度が施行された実績があるのに、これまたそれをなした大正デモクラシー自体に「デモクラシー」という言葉から拒否反応を持つ。しかし滝川先生のような明治憲法下の人々の方がよほど頭がやわらかったともいえ、大いに反省せねばならない。

● 「得宗」による官僚専制で破綻

なおこのような北条泰時の理想の政治(それは、南朝の北畠親房からさえ「泰時という者なからましかば、日本国の人いかが成りなまし」と褒めあげられた)も、その後の北条氏の専制体制、特に「得宗」と呼ばれる北条家嫡流が絶対的権力をにぎるようになってからは、かえって平頼綱、長崎喜円ら御内人と称せられる陪臣の官僚専制に陥り、元寇後の恩賞の問題などで破綻を来たし、徳政令、下地中分といった道理に反する、あるいは道理を曲解した政策のために御家人や公家の不満を招来し、あるいは御家人号を停止するなどして遂に破綻したことが想起されなければならない。

この幕府崩壊と裁判制度につき、佐藤進一先生は、徳政令の出た永仁以降の鎌倉末期には、妥協による即決主義、職権主義が台頭してきたことを指摘され、更に、訴訟を担当する職員の地位の家格化、形骸化が加わり、「訴訟制度の持つ実質的意識は喪失し、御家人を幕府に結びつける有力な紐帯の一つであった訴訟制度に対する信頼は急速に失われて行く。これが、鎌倉幕府訴訟制度末期の状態であった」といわれる(鎌倉幕府訴訟制度の研究)。

● 室町・戦国が再び現出?

時あたかも現代はバブル崩壊後の不良債権の問題等を抱え、バブル期の怪しげな貸し金もとりあえず「貸したことにして」銀行の責任を棚上げし、借り手には破産を勧めてさっさと処理するような手法がまかりとおっている。これこそ、現代版徳政令(それは鎌倉では一種の裁判の拒否といわれる)、あるいは国民という名の御家人切捨てともいうべく、こういう日本の歴史に照らして感心できない政策が行われていくと、鎌倉のあとの室町、戦国といった時代が再び現出されるのではないかと思われてくるのである。だが、それはかえって新しい秩序が生み出される前兆なのかもしれないが。

タイトルとURLをコピーしました