ホームページにある「館長事務室だより」の1年前のものを抜粋して貼り付けます。 写真は、12月15日の記事にも出てくる博多。後方の山は「立花城」です。国際都市博多を 押さえる大友氏の中世の牙城。 永禄12年の毛利との戦は、大友宗麟が守将に投降を命ずるなど、今日からみたらユニーク、 ある意味で国際的戦争です(私の本「葉隠論考」をご参照)。 ★2月3日 昨日のコロンビアの事故で思い出すのは10数年前のチャレンジャーの事故です。あのあと、 ワシントン近郊のアーリントン墓地を訪れる機会がありました。 その折り、チャレンジャーの乗員が正に国民統合のシンボルになっていることに何か違和感を 感じたことが忘れられません。彼らに対する「鎮魂」ならわかりますが、彼らを統合の手段のよ うにすることは不自然と思ったものです。 同様に日本の靖国神社も、正に鎮魂の場であってほしい。何かを主張するような場ではなく (8月18日の記事)。それでこそ戦後の嵐の中でも地元の人からは普通の神社として親しまれ てきたと思います。 最近はいろいろな事象が人工国家の手段みたいになる危険があり、それでは日本の近くの人工 国家と同じになってしまいます。今回の事故の事後の行動が、亡くなった人への鎮魂と、再発防 止に主眼をおくものになることを祈ります。 ★1月24日 唐代に流行った仏教の一派を論じた「三階教の研究」で有名な仏教学者・矢吹慶輝博士の「法 然上人」を読んでいます。 その中で、上人はなぜ出家したのかという話のところに、武士であった父が敵に殺される場面 で、死に行く父が、幼少9歳の上人に、敵討ちは新たな恨みを生むのみ。菩提心を起こせと諭す 話が出てきます。 ここについて博士は、「武士道の形を捨ててその意を取ったもの」と評しておられます。「武 士道は殺戮」という観念に対して、真に強い武士道とは何か、を迫ったものと読みたいと思いま す。矢吹博士こそ正に仏教学者にして、武士道の神髄を知る方といってよいでしょう。そこにこ そ本当の武士道の、また仏教の強さがあり、イラク問題が焦眉の急となっている今、世界の中 に、仏教が存立していく意義があると思います。山岡鉄舟の「無刀流」などもそういうことでし ょう。 ★1月17日 今日は「阪神大震災」の日でした。6000名余りの死亡者をはじめとする被災者の方々には心 から哀悼の意とお気の毒の気持ちを表したいと思います。 ただ、話変わって、当時もこの地震を約14万人が死亡した関東大震災と同じく「大震災」と呼 ぶことには批判がありました。他の地震と比べてもそうではないでしょうか。これを大震災と呼 ぶと、もっと大きなものが来ることについての気持ちが弛緩してしまうと思うのです。しかも、 第二次大戦では300万人です。ソ連は2000万人とか。 自然の災害よりも、人間の考え違いがいかに恐ろしい結果をもたらすか、そのことを肝に銘じ て色々なこと(例えば今のイラク問題にしても)を考えなければならないと思います。 ★1月1日 明けましておめでとうございます。とはいうものの、何がめでたいのか・・・。 この新暦で正月を祝うようになったのも明治維新で行われたことのひとつに当然数えられま す。 およそ支配者たるもの縦横高さの三次元だけでなく時間という四次元をも支配するものとされ てきました(この博物館の中国の映像や暦に注目)。ですから明治政府は時間支配の象徴として 太陽暦によるお正月を打ち出したものと思います。それは1月が正月になるという意味では合理 的ですが、季節感、あるいは農業の実態からは離れ、アジア諸国とも協調できません。ですか ら、「おめでとう」といってもピンとこないわけです。 こうして、鍋島直茂のいう「実」から遠ざかった姿が明治維新で徹底されたのです(この博物 館の刑法と同じように)。 実は明治維新はそれだけせはありません。例えば地名という縦横についても全く人工的な「東 京」などというものを作ったのです。それは現代にまで及んで歴史のdnaを破壊しているとも いえます。 しかも大切なことはこうして従前の枠組みの中で支配者を変えただけですから、民主革命など というものとは全くちがっていたということです。 私たちはまさに年頭にあたり、ここを根本的に考え、元気のよかった中世の国民に帰る必要が あると思います。 ★12月21日 元第18師団(菊兵団)参謀牛山才太郎氏にお会いし、お話しを伺いました。同氏は第二次大戦 のビルマ(ミャンマー)におけるフーコン作戦(北ビルマにおける連合軍阻止の作戦。インパール 作戦とも連動する白骨街道の戦争。フーコンとは「死」)などで敢闘され、「ああ、菊兵団」な どの著書もあります。 お話しの中にはやはり実戦経験者でなければわからないものがあるとともに、日本の組織の持 つ問題点を文字通り体で感じた方の感懐がありました。 自衛隊の海外派遣など、複雑な問題に直面する今、日本という国家組織に昔のような問題がな ければよいがと思いますが果たして如何に。少なくとも実情を知らず視野の狭い軍事オタク的発 想に振り回されることだけはあって欲しくないものです。その意味で、私は最近、官僚攻撃より も、官僚よしっかりしてくれ、と言いたい気持が強まっています(もちろんその前提として、全 体の奉仕者で、国民に支えられる官僚像の実現が必要)。 いずれにせよ、明治の貴重な人材牛山様のご健勝を祈りたいものです。 ★12月19日 知り合いのA判事が最近B地裁に転勤していきました。その知らせを聞いて自分にも経験のあ る昔の赴任を思い出しました。 裁判官が任地に赴く場合、先ずはその地裁が属する高裁の長官のところに挨拶に行きます。こ れは、昔の武士が戦場に到着すると「着到状」という文書に証明をもらっていたことを思い出さ せます。やはり裁判官は「武士」なのであり、軍部、司法部と呼ばれたのは意味があるのです。 もっとも、韓国にもある代官の赴任の方がより似ているかもしれません。 いずれにせよけじめをつけるのはよいのですが、現代において余り実質のない着到をやってい たのでは国民の意識との間に乖離を生じます。ピシッとすることと国民の方を向くこととを一致 させなければなりません。だから私は民族主義と民主主義との調和と言うのです。 ★12月15日 仕事で福岡に来て、宗像大社を遥かに参拝。もちろん、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれる皇室と もかかわり深い神社です。 ところでこの皇室の氏神ともいうべき宗像大宮司家の奥さんが鎌倉時代の2代にわたり中国宋 の人であったことは福岡以外ではあまり知られていないかもしれませんね。王氏、張氏といい、 張氏が夫の両親の菩提を弔うために建立した石造物が残っています。中世博多は、また、京都は もとより鎌倉なども、極めて国際的な町であったことが明らかです。統制の貿易ではない「時 代」がそうさせたのでしょう。例えば、博多にいた中国商人が寧波(ニンポウ)の寺に道路を寄 進した石碑様のものは今も寧波に残っています。 こうした中世人の生き方は松浦党はもちろん、葉隠にも絶対に最後の残り火として入っていま す。葉隠にもおかしなところは一杯ありますが、この残り火を探し当てる能力を我々は身に付け これを生かさなければと改めて思いました。 それができて初めて、見方の狭い国粋主義からも葉隠鍋島国粋主義からも脱皮した本当の民族 主義になれるはずです。そのとき、葉隠も本当に役に立つ本になるでしょう。 ★11月26日 田辺久子さんの「関東公方足利氏四代」を読み、初代基氏がある僧に送った手紙に心打たれる ものがありました。彼は足利尊氏の三男に生まれ、父尊氏と自らが猶子となったその弟直義との 観応の擾乱に巻き込まれて板挟みとなります。それがおさまると埼玉の入間川に長期対陣するな ど戦乱の中に身を置きます。 そんな基氏が24歳の時「そもそも工夫用心何様たるべく候か 座禅の時心乱れ雑念相起こり 候事多く候 行住座臥の間、その意何体に持つべく候か 未だ工夫純一ならざるの時生死到来候 わばその時の所存何に向くべく候か」と述べます(一部割愛)。 戦争の現実の中に身を置いて死を突き詰めて考えた武人のこんな文章をこそ勉強すべきではな いか。 一方で、古典というと、「源氏」だ「枕」だと王朝物を重視しますが、それはごく一部階級 の、そもそもウソの話で、この武人らの述べる事実の重みにはかなわいと思うのです。 もちろん、様々な考えがあってよいのですが。 ★11月10日 刑務所での暴行事件が問題になっています。私も以前、保護房など見分したことがあります が、窓もなくノッペリでまんまるの内部は、不安感から10分もいれば気持ちが悪くなるような ところです。 問題の一つはそうした場所に何時、何があったら収容するかについて非公開の通達に任されて いる点です。つまりはこの博物館の「御定書」の世界です(「今こそ死ぬことと見つけたりで は」参照)。吉宗のしたことは現在までも尾をひいているわけです(日本国憲法には法律による 行政の原理があるのに)。 ただし、その旧憲法の法体系で仕事をした人、例えば正木亮(あきら)先生のような方でも、 革手錠や重塀禁(軍隊でいえば営倉)の廃止を言われていたことが思い出されなければなりませ ん。先生は自ら刑務所に入って体験した元司法省行刑局長でした。 いずれにしても実態を国民が知ることが大事。上の「葉隠論考」には韓国の西大門刑務所のこ とを書きましたが、韓国では小学生でもこの間まで使用していた死刑の施設を見学しているので す。 御上(おかみ)任せにしている国民と自分で調べる国民と、どっちが「武士」かは明らかです よね。 |
1年前の「事務室便り」
事務室便り