関東と葉隠とアジア(蓮池・小田氏の祖霊信仰) 引用 2003/3/22 (土) 12:36:05 – 嘉村孝 – No.1048303797
山本常朝は、親・神衛門重澄七十歳の時の子であって、塩売りにもらわれそうになったとのこ
と。それを「神衛門は陰の奉公を仕ると勝茂公常々御意なされ候らえば多分子孫に萌えいで御用
に立ち申すべし」と言ってとどめ、のちの常朝に松亀という名を付けたのが多久図書でした。
図書は武雄・後藤家忠の子で、竜造寺から鍋島への政権移譲に重要な役割を果たした多久安順
の養子になりましたが、養父と合わず義絶されました。
しかし、それにもかかわらず、閑居の身でありながら島原の乱に出陣したというので、勝茂か
ら勘気を赦された人です。母は竜造寺隆信の弟長信の娘でした。
この図書の子には多久美作があり、彼もまた初代藩主鍋島勝茂の信任篤く、宗龍寺江南和尚と
の間で、仏教的な「道とは我が非を知ること。念々に非を知って一生打ちおかざること」といっ
た話を残しています。
そんな多久図書の末子に元・蓮池(現在の佐賀市蓮池町)の領主小田家の跡を継いだ小田蔵人
がいました。
戦前に教育を受けられた方は、北畠親房が神皇正統記を書いた場所として、常陸(現在の茨城
県)筑波山近くの小田にある小田城をご存知でしょう。
蓮池の小田氏もこの関東の小田氏が九州に下向したものです。
小田氏の先祖は藤原北家八田流とされ、源頼朝の家来・八田知家が有名です。知家は常陸守護
に任命されました。そして、知家の三代の後裔・時知が筑波郡小田の城主となり、更に、その三
代後の治久が元弘三年(一三三三年)以来、後醍醐天皇方となり、北畠親房はこの小田城内で
「神皇正統記」を著しました。
そして、更に治久の三代の後裔持久の弟直実が応永三四年(一四二九年)神埼郡蓮池に下向
し、小田城を築きました。
竜造寺の立場からの歴史を記した「肥陽軍記」には、小田城について「長江のめぐれるを城塁
として」云々と描写してあります。
即ち十数年前までは、蓮池の町を筑後川から佐賀市に至る佐賀江が東西に貫流していました。
それは東西とはいっても、現在の蓮池公園の部分と、その東で、都合二箇所、大きく南に湾曲
し、U字型の出っ張りを作っていました。その東側の出っ張りが小曲城です。
現在、小曲城は佐賀江の改修によって消滅し、江戸時代の蓮池城もその真中を佐賀江が突っ切
る形となって、更に最南端は東西に切り取られ、往時をしのぶものがほとんどなくなってしまい
ました。
しかし、この小曲城の西北には、小田氏の菩提寺であった龍津寺が残っています。そして、そ
の東で、やはり蓮池城からみると西北に当る部分に蓮池藩五万石の菩提寺である宗眼寺がありま
す。
ところで古代以来、世界的におよそ祖霊を祀る場所はその本拠を基準として一定の位置が決ま
っているようです。
現在の中国では、祖霊殿は故宮の東に。西には社稷壇が。韓国では祖霊を祀った宗廟は東に。
社稷壇は西にあります。
一方日本でも、陰陽五行説や道教思想の影響を受け、「うつほ物語」などに戌亥の方角を祖霊
神のいる所(三谷榮一)としているように、西北を祖霊の地とすることが多いようです。
西北の方向は祖霊の飛来する聖なる方向であり、と同時に悪霊が飛んで来る方向でもあると考
えられ、私のみるところ佐賀県内はもとより全国的に、西北にお墓などを置く事が広く行われて
いるように思います。
そうしますと、この蓮池における城と祖霊を祭る寺院の配置も正に古代以来の発想によるもの
のように思えてなりません(吉野ヶ里遺跡にも祖霊を祀る壇があるようです)。
筑波からやってきた小田氏、それとアジア諸国の祖霊信仰との関係が、何となく気分を大きく
してくれます。
